鳥取県鳥取市に存在していた鳥取城は別名久松山城とも呼ばれていた山城で,現在は国の史跡にも指定されている。
天文年間(1532~1555年),山名氏により築城されたとされている同城は江戸時代には藩庁として利用されていた歴史の長い城であるが,その歴史中,幾度も戦いが繰り広げられた城なのである。
具体例を挙げると,
天正元年(1573年)
尼子氏再興軍による鳥取城攻撃及び毛利氏による鳥取城攻撃
天正2年(1574年)
尼子氏再興軍による鳥取城再攻撃
天正8年(1580年)
織田氏による鳥取城攻撃及び毛利氏による鳥取城攻撃
天正9年(1581年)
織田氏による鳥取城再攻撃
慶長5年(1600年)
亀井氏による鳥取城攻撃
が挙げられる。
そして,その中でも特に有名なのが,天正9年(1581年)の織田氏による再攻撃で,この戦いでは,織田氏家臣・羽柴秀吉が戦いを指揮した。
当時,同城には,毛利氏の重臣・吉川経家が籠城していたのだが,この戦いでまず秀吉は,周辺から米を高値で買い取る一方,約1400の兵士が立て篭もる同城に付近の農民約2000を追い詰めた上で同城の食糧補給路を遮断,兵糧攻めを実行する。
同城には約20日分の兵糧の備えしかなく,4ヶ月もすると餓死者が続出,城内は人肉を食らう者まで現れたと言われる程の阿鼻叫喚の状態だったのだという(この凄惨な状態を見て経家は自身の命と引き換えに開城を決意した。)。
なお,この籠城戦をかろうじて生き残った者もいたのだが,それらの者の中には,戦後,与えられた食事を弱った体で急に食べたためか,突然死んでしまう者もいたのだという。
多くの悲惨な戦いを経験した同城では,今もなお,幽霊の目撃談があると言われ,白い無数の手が現れた,うめき声と思しき声が聞こえてくる,落ち武者と思しき人物の幽霊が現れる等と言われているのだそうである。
最後にもう一つ,同城には不気味な話が伝わる。
慶長5年(1600年),鳥取城主宮部氏は西軍に与したため,東軍に与していた亀井氏が同城を攻めたが,その際,亀井氏は,旧交があり,西軍から東軍に寝返えらせた斎村政広(赤松広秀または広通とも)にも同城攻めを要請する。
政広はその要請に応え,同城を攻撃するが,その際に城下を焼き討ちしたことを戦後になり徳川家康に咎められ切腹を命じられてしまう。
自刃の折,政広は凄まじい怒気を浮かべ,切腹した瞬間,江戸の方角を向いて倒れたのだという。
そして政広の魂は自身を滅ぼした同城に留まり,夜間やどんよりした日などに,同城内を