奈良県高市郡高市町にある標高約583mの高取山に存在した高取城は別名高取山城と呼ばれた山城で,昭和28年(1953年)には国の史跡に指定されている。
同城は元弘2年/正慶元年(1332年),同地に勢力を有していた越智氏の手により築城されたと伝えられ,同氏の居城・貝吹山城の支城として機能したのだという。
同氏は長くこの地方を支配していたようであり,戦国時代に入ると貝吹山城から高取城を居城にしたそうで,天文元年(1532年),大和国に一向一揆衆が攻め込んできた際,対立関係にあった興福寺の僧兵達が越智氏に助けを求めたため,同城も一向一揆衆に囲まれ激戦が繰り広げられたのだという。
その後,同地を織田信長が支配すると,天正8年(1580年)に大和国内は一城にする指示が出たため高取城は一時廃城,また,越智氏は筒井氏の配下となっていたが,天正11年(1583年)に殺害(自刃とも)され,越智氏は滅亡してしまう。
同城は天正10年(1582年)に織田信長が本能寺の変で横死した後,筒井氏により要塞化が進められた後,天正13年(1585年)に筒井氏が伊賀国に移封されると同地を領した豊臣秀長は同城に本多氏を入城させる。
本多氏は新しい縄張りや城下の整備を進め,慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては東軍に与したため戦後は加増を受け改めて高取藩2万5000石の初代藩主となる。
その後,本多氏は嗣子がいないため廃絶,同城には江戸幕府より城番が置かれていたが,寛永17年(1640年)に植村氏が大名に取り立てられ同地を支配,同城を藩庁として明治維新まで続くことなる(なお,同城は幕末の文久3年(1863年),尊皇攘夷派の浪士達に攻撃を受けている(天誅組の変)。)。
ところで,現在の高取城は,心霊写真の撮影ができる心霊スポットとして高名なのだといわれている。
過去,合戦が繰り広げられた歴史を有するがために,心霊写真が撮影されるのだろうか。