福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

心霊(合戦)

田原坂の戦い(熊本県)

明治10年(1877年)に発生した西南戦争は,明治7年(1874年)に政変に敗れ,明治政府から下野して鹿児島県に住んでいた元参議・陸軍大将の西郷隆盛を盟主として不平士族が起こした武力反乱であり,日本最後の内戦でもある。 この戦いにおいては,熊本県,宮…

関ヶ原の戦い(岐阜県)

慶長3年(1598年),天下を統一した豊臣秀吉が病没する。 そして,秀吉亡き後,その勢力を拡大していた徳川家康と,その勢力拡大により豊臣氏が滅亡することを危惧した石田三成の間で繰り広げられたのが,慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の合戦である。 …

賎ヶ岳の戦い(滋賀県)

天正10年(1582年),織田信長が明智光秀の反逆により本能寺にて横死すると,信長の長男・信忠の長男(信長の孫)・三法師を後継者に推す羽柴秀吉と,信長の三男・織田信孝を後継者に推す重臣・柴田勝家が敵対化する。 そのため,両陣営は諸勢力を自身に協力…

三方ヶ原の戦い(静岡県)

元亀2年(1571年),室町幕府第15代将軍・足利義昭は織田信長追討令を発出,それに応じた甲斐国の武田信玄は,翌年,信長の同盟者・徳川家康の支配する三河国・遠江国へ侵攻,さらには西上作戦を開始する。 この西上作戦の過程でいくつかの戦いが武田軍と徳…

小牧・長久手の戦い(愛知県)

小牧・長久手の戦いは天正12年(1584年)に発生した複数個所での戦いであるが,今回ご紹介するのは,その中での戦いの一つ,長久手の戦いとなる。 天正10年(1582年),織田信長が明智光秀の反逆により本能寺にて横死すると,信長の長男・信忠の長男(信長の…

姉川の戦い(滋賀県)

永禄11年(1568年),足利義昭を奉じて京都に上洛した織田信長は,越前国の朝倉義景に対し上洛を要請するが,本拠を留守にすることに不安を覚えたこと,また,家格が下である織田氏に従うことを嫌った義景はその要請を拒否する。 これに対し,信長は元亀元年…

響ヶ原の戦い(熊本県)

天正9年(1581年),肥後国の戦国大名・相良義陽は,大挙して侵攻してきた薩摩国の島津氏に降伏することを余儀なくされる。 そして同年,島津氏は義陽に対し,阿蘇氏の家臣・甲斐宗運が守る御船城攻略を命じる。 義陽と宗運は誓詞を取り交わした盟友であり,…

戸次川の戦い(大分県)

天正14年(1587年),薩摩国の島津氏の侵攻を受けた豊後国の大友宗麟は豊臣秀吉に窮状を訴えた結果,秀吉は九州征伐を決意する。 同年,島津家久が豊後国に侵攻,大友氏の持城である鶴賀城に攻撃を仕掛ける。 これに対し,秀吉配下の仙石秀久を主将,配下に…

天目山の戦い(山梨県)

天正10年(1582年),織田信長とその盟友・徳川家康,そして北条氏政は,武田勝頼の領国である甲斐国,信濃国,駿河国,上野国へ侵攻を開始する。 長篠の戦い(天正7年(1575年))に父・武田信玄以来の多くの重臣を失い,その後勢力が衰えていた勝頼率いる…

耳川の戦い(宮崎県)

天正6年(1578年),豊後国の戦国大名,大友宗麟は約3万ないし4万の兵力を率い,日向国へ遠征することを決意する。 これは,島津氏に滅ぼされた同国の伊東氏を復帰させ島津氏の北上に備えるためとも,宗麟が同国にキリシタン王国の建国を夢見ていたためとも…

一言坂の戦い(静岡県)

元亀3年(1572年),甲斐国の武田信玄は室町幕府第15代将軍・足利義昭の信長包囲網に応える形で西上作戦を開始,配下の山形昌景を三河国へ,秋山信友を美濃国へ,そして自身は遠江国へ侵攻する。 このうち,昌景の率いる部隊は降伏させた三河の国人を率いて…

白井河原の戦い(大阪府)

元亀2年(1571年),摂津国内で対立していた和田惟政・茨木重朝連合軍と荒木村重・中川清秀連合軍は西国街道上にある白井河原にて対峙する。 この際,和田・茨木連合軍は幣久良山へ,荒木・中川連合軍は馬塚に陣取った。 この戦いは,和田・茨木連合軍は約50…

三増峠の戦い(神奈川県)

永禄12年(1569年),甲斐国の武田信玄は約2万の兵を率い出陣,相模国の戦国大名・北条氏康の居城である小田原城を包囲する。 しかし,同城は過去,上杉謙信が約10万の兵に囲まれても耐え抜いた堅城であり,信玄も城下に火を放ちすぐに撤退することになる。 …

上田原の戦い(長野県)

天文17年(1548年),甲斐国の武田晴信は信濃国にて,北信濃の戦国大名・村上義清と上田原にて交戦する。 天文10年(1541年),父・信虎を駿河国へ追放し武田氏の当主となった晴信は,以降連戦連勝,信濃国へ侵攻するようになる。 対する村上氏の当主・義清…

小豆坂の戦い(愛知県)

愛知県岡崎市にある小豆坂ではかつて2度,尾張国の織田氏と三河国の今川氏(及び松平氏)との間で合戦が繰り広げられた(なお,1度目の戦いが行われたかは後述の通り虚構とする説もある。)。 最初の戦いは天文11年(1542年)のことである。 この時代,尾張…

笛吹峠の戦い(埼玉県)

正平7年/文和元年(1352年),南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が信濃国,新田義興・義宗らが上野国で,北朝方の足利尊氏方を倒すためそれぞれ挙兵した。。 これは,前年から繰り広げられていた,尊氏と弟・直義の間の観音の擾乱の間隙を付いたもので,…

小手指原の戦い(埼玉県)

元弘3年(1333年),新田荘に拠点を持つ新田義貞は鎌倉幕府打倒のために挙兵する。 新田軍は鎌倉街道を進行,入間川にて,幕府軍と対峙,そしてついに,同川を渡った先にある小手指原にて両軍は激突することにある。 本来,幕府軍は新田軍が同川を渡り切る前…

船上山の戦い(鳥取県)

元弘2年/正慶元年(1332年),鎌倉幕府転覆を企てた後醍醐天皇は隠岐国に配流,同地の守護・佐々木清高に幽閉される。 清高の監視は厳しかったが,翌年,天皇は脱出に成功,船で出雲国を目指すが風に流され伯耆国に漂着してしまう。 ここで,天皇は同地の地…

藤戸の戦い(岡山県)

寿永3年/元暦元年(1185年),源範頼(頼朝の弟,義経の兄)は平家追討軍を率い京都より出発する。 特に,舟戦に長けた平家に対し,舟を持たない源氏にとって水軍確保は緊急の課題であったが遅々として進まず,逆に平家の水軍に兵站を断たれてしまうほか,備…

篠原の戦い(石川県)

寿永2年(1183年),圧倒的兵力で源義仲軍に迫った平家軍は,倶利伽羅峠において義仲軍の奇襲攻撃を受け大打撃を受けてしまう。 sizyuukara-1979.hateblo.jp そのため,平家軍は北陸道を京都方面へ向かい逃走していたが,義仲軍はすぐさま追撃を開始,ついに…

倶利伽羅峠の戦い(富山県)

治承4年(1180年),後白河天皇の第三皇子・以仁王の平家追討の令旨を受け信濃国を出陣した源義仲はその勢力を北陸道に大きく広げていた。 これに対し平家は寿永2年(1183年),平維盛を総大将とし,総勢10万騎と称する大軍を派遣,越前国の火打城では平家が…

水島の戦い(岡山県)

寿永2年(1183年),平家を追討すべく京都を出発した源義仲軍(率いるのは足利氏・海野氏)は,平家の拠点のある讃岐国屋島へと向かう。 しかし,義仲軍は屋島に渡海をする途中,水島周辺にて平家軍と交戦することになる。 平家軍は舟戦に手馴れていて舟同士…

千本浜の戦い(静岡県)

天正8年(1580年),関東に拠点を置く北条氏家臣・梶原景宗が北条水軍を率いて沼津方面へ侵攻すると,武田勝頼は浮島ヶ原に布陣,武田水軍も出陣し,千本浜沖にて戦いが行われた。 武田軍は浜辺から腰まで海水に浸かりながら北条水軍の船に銃撃を加えるもの…

隼人の反乱(鹿児島県)

養老4年(720年),九州南部において隼人がヤマト王権に対して反乱を起こす。 これは,ヤマト王権の支配が未だ十分及ばない九州地方に住んでいた「熊襲」や「隼人」と呼ばれる住民のうち,隼人が大隅国国司・陽侯麻呂が殺されたことに端を発したものである。…

和田合戦(神奈川県)

建暦3年(1213年),鎌倉幕府の有力御家人である和田義盛が幕府に対して反乱を起こした。 義盛は相模国の豪族・三浦氏の一族で剛勇の士で,初代鎌倉幕府将軍源頼朝死後に発生していた御家人同士の争いで有力御家人が滅ぼされていく中,執権・北条氏に味方し…