島根県米子市に存在してた米子城は別名久米城,湊山城とも呼ばれた平山城で,江戸時代においては米子藩の藩庁として機能していた城である。
同城は,湊山と同山と峰続きの丸山,そして湊山に隣接する飯山それぞれに築かれた曲輪等で構成されていた城で,当初,飯山に米子城が築城されていた(1400年代に築城されたものと推定。)。
この地は元々,山名氏の所領であったが,大永4年(1524年),尼子氏の攻撃を受けて落城,同氏の持城とされる。尼子氏はその後,毛利氏と敵対,やがて同氏の侵攻を許すようになり,永禄5年(1562年)頃になるとその攻撃により同城も失陥,再び山名氏の持城となる。
尼子氏は永禄8年(1565年),毛利氏により滅ぼされているが,お家再興を目指す尼子氏遺臣・山中幸盛が再興軍を旗揚げ,永禄12年(1569年),米子城城主・山名氏と手を結ぶが,同城は毛利氏家臣・吉川元春の攻撃を受け落城,山名氏は自刃,元春は同城に自らの家臣を城主として統治させた。
天正19年(1591年)になると,元春の三男・吉川広家が同城の城主となり,湊山に築城を始める。
しかし,慶長5年(1600年)に発生した関ヶ原の合戦において,毛利氏は西軍の総大将として参加,関ヶ原本戦では東軍に通じていた広家の工作等もあり,何とか毛利氏自身は改易を免れるも大幅な減封措置を受け,広家も米子から岩国へ転封となる。
代わりに同地に入ったのは中村氏で,同氏の家老・横田村詮とともに同城を築城,さらに米子の城下を発展させることになる。
その後,中村氏は嗣子がなく断絶,後,池田氏が入封し幕末に至ることになる。
ところで,米子の発展に寄与した中村氏の家老・横田村詮であるが,同城築城後,その才能を妬む他の家臣の甘言に惑わされた中村氏当主・一忠(当時14歳)により,慶長8年(1603年)に同城二の丸にて暗殺されてしまう。
それに激怒した横田一族は,飯盛城(米子城の三の丸に当たるという。)に立て篭もる。その中には剣豪として名高い柳生一族の柳生宗章もおり,一忠は隣国の堀尾氏の助成を得てようやくこれを討ち取るが,この報を受けた徳川家康は激怒,甘言をした家臣らに即刻切腹を命じている(一忠についてはお咎めなし。)。
このように血塗られた歴史を有する同城では,今もなお,鎧姿の武者の幽霊が目撃されるのだと言われている。
また,吉川広家が同城を建造中,幾度も石垣が崩落したため,城下に住む美人として名高い「お久米」という娘を祭りの盆踊りの最中に誘拐,そのまま人柱にしたという。
そのため,同城は「久米城」と呼ばれるようになった,また,その後しばらくは米子の城下で盆踊りは開催されなくなったと伝わるほか,今もこのお久米と思われる女性の幽霊が目撃されると言われているのだという。