福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

佐倉城(千葉県)

 佐倉城は千葉県佐倉市にある標高約30mの鹿島山に築城された平山城である。

 同城は,天文年間(1532~1555年),同地を治めていた千葉親胤が大叔父に当たる鹿島幹胤に築城を命じたが,親胤が暗殺されたために中断,その後,邦胤が再開しようとするも,邦胤も暗殺されてしまいそのままとされた(なお,「鹿島山」の地名は,この鹿島幹胤にちなむそうである。)。

 その後,長らく放置されていたが,慶長15年(1610年),徳川家康の命を受けた土井利勝が築城・完成させ,以後,佐倉藩の藩庁として江戸幕府崩壊まで使われていた(なお,文化10年(1813年)には失火により天守が焼失している。)。

 明治になると,同6年(1873年)の廃城令により建物類は全て撤去,その跡地には,大日本帝国陸軍歩兵第2連隊,後,歩兵第57連隊,通称「佐倉連隊」の駐屯地となり,兵営等が設置された。

 そして,終戦後の昭和39年(1964年),軍関係の施設を取り壊した後,市民に開放され,現在は佐倉城址公園として整備されている。

 ところで,佐倉城と言えば,「佐倉宗吾(惣吾)」の怨霊話が名高い城である。

 寛永19年(1642年)より,佐倉の地は,名君として名高い堀田正盛が統治していたが,慶安4年(1651年),三代将軍徳川家光が病死した際,正盛は殉死してしまう。

 正盛の跡を継いだのが嫡男の正信であるが,正信は父とは違い,領民に重税を課し,税を払えない者は拷問するなど悪政を敷いたのだという。

 そのような状況に耐えかねた佐倉宗吾は,領民の代表として将軍へ直訴を決意,上野寛永寺に参詣する四代将軍徳川家綱に直訴状を渡すことに成功する。

 この直訴の結果,佐倉藩の窮状を知った家綱に税の減免が行われ,領民達は救われることなった。

 しかし,直訴をされ面目を潰された正信は激怒,宗吾夫婦は磔,また,二人の間の子供4人も死罪にされてしまう。

 この処刑の後,佐倉城では,磔姿の宗吾が目撃されるようになる,正信が宗吾の怨霊に憑依されたと言われている。これらの原因か,正信は精神を病み,奇行に走るようになり,万治3年(1660年),突然,「幕府の失政により,人民や旗本,御家人が窮乏している。それを救うべく,自らの領地を返上したい」という,幕政批判の文書を提出,無断で領地に戻ってしまう。

 これが大問題となり,結局,堀田氏は所領を没収となり,正信は各大名に預けられることになるが,それでも奇行は止むことはなく,ついには延宝8年(1680年),四代将軍家綱の訃報を聞き,自らの喉を鋏で突き自害してしまうのである。

 この後,寛保2年(1742年),堀田氏は再度,佐倉の地を領することになるが,宗吾の100回忌に当たる宝暦2年(1752年),先祖の非を詫びるため,宗吾を祀る宗吾霊堂を建立する,というのが,佐倉宗吾の怨霊に関する概略である。

 この怨霊話のほか,佐倉城址公園に残る姥が池では,若君の乳母が,誤って若君を池に落としてしまい,自らもその池に身を投じてしまった,その後,夜になると謎の発光体が現れたり,すすり泣く声が聞こえてくるという伝承が残る。

 また,現在も,佐倉連隊が使用していた「跳下台」と呼ばれるコンクリート製の階段状の構造物(この上から下に跳下する訓練に用いる。)があるが,この階段に登ると兵士の幽霊が見える,兵士の声が聞こえるという怪奇現象が発生すると今も言われているのである。

 築城の歴史上,合戦の経験はない佐倉城であるが,上記のとおり,いくつもの怪しい話が現在に伝わる場所である。