郡上八幡城は岐阜県郡上市に存在していた城で,現在は昭和8年(1933年)に建てられた,全国でも珍しい木造の復元天守がある城でもある。
同城の築城起源であるが,永禄2年(1559年),遠藤盛数が,同地を支配していた東氏の守る赤谷山城(東殿山城とも)を攻める際,牛首山に砦を築いたのがその始まりなのだという。
盛数没後,その跡を嫡子の慶隆が継ぐが,永禄7年(1564年)には従兄弟の胤俊により一時期同城を奪取されている(ただ,翌年には返還を受けている。)。
ところで,遠藤氏は美濃国の斎藤氏に仕えていたが,永禄10年(1567年)に同氏が滅亡すると,後,織田氏に仕え,各地に出陣し活躍することになる。
しかし,天正10年(1582年),織田信長が本能寺の変で横死を遂げ,同年発生した山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を破ると,美濃国の諸士は羽柴氏へなびいたが,盛隆は織田氏(信長の三男・信孝)に従い続けた。
だが,天正11年(1583年),賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が破れ,織田信孝も羽柴秀吉に降伏したという知らせを受けた盛隆も降伏するのだが,天正16年(1588年),かつて敵対していたことを理由に豊臣秀吉より領地を没収されてしまう。
盛隆の後,郡上八幡城に入城したのは稲葉貞通で,この際,同城の大規模改修を実施,近世城郭としての同城が誕生した。
貞通は慶長5年(1600年)に発生した関ヶ原の合戦においては西軍に属したため,同城は東軍方の遠藤盛隆と金森可重の攻撃を受けることになる(なお,貞通は東軍方に寝返り,遠藤・金森氏と和議を結ぶ。)。
このため,稲葉氏は豊後国臼杵に転封,郡上の地には遠藤盛隆が再び入封し,以後,遠藤氏,井上氏,金森氏,青山氏が同地を統治したが,いずれも同城を藩庁とし,廃藩置県まで存続していたのである。
ところで,同城には人柱の伝説が残されている。
何でも,永禄8年(1565年),遠藤慶隆が同城の改修を行っていた時のこと,改修に使う材木を運んでいたところ,ある1本の木だけがどうしても動かなくなるという事態が発生した。
この際,「およし」という17歳になる器量良しの娘がその木を押すと,不思議にもするする動き出し,彼女が押すのを止めるとたちまち動かなくなる,という出来事があり,およしには霊力があると評判になった。
ところが,その評判が仇となり,彼女こそ人柱に打ってつけ,という話が持ち上がり,ついには彼女は白装束を着せられ,三階櫓の下の石垣に,籠のまま押し込められたのだという。
そして,時代が大きく過ぎた明治14年(1907年),同地では水害や火災が頻発するようになり,それと同時に,青白い顔をした女性の幽霊が方々に現れ,「今夜は寒いから火を焚いて当たろうか」と呟いて消え去ったのだという。
町の人々は,この女性の幽霊が人柱にされたおよしだと考え,同城の麓にある寺に駆け込み,住職に読経をあげてもらうと,そこにおよしの幽霊が現れ,泣きながら「いつもこのように供養して欲しい」と懇願したのだという。
そこで,願いを聞き入れた住職は「およし大明神」として彼女を祀ることにしたところ,不思議なことにそれまで発生していた災害は静まり,この周囲では豊作が続いた。
ところが,大正8年(1919年)には町の北半分を,昭和6年(1931年)には南半分を焼く大火が発生した。
この出来事に,町の人達はあることを思い至りゾッとした。それは,およし大明神の供養をすっかりおろそかにしていたころである。
騒ぎ出した町の人達は,およしの怨霊を鎮めようと同城の本丸に祠を建立,すると,怪奇現象はぴたりと止んだのだという。
もし,再び,およしの供養をおろそかにした場合には,再び同地に何らかの災いが起こるのかも知れない。