令和2年1月29日 改訂
1 概要
天正年間(1573~1593年)のはじめ,会津の城主は蘆名三浦介盛隆という人物であった。
この時代,有罪の者を処刑する場は湯川の東岸であった(現在の花畑という場所である。)。
その頃,只野,片平という両名の者が盛隆に背いたので,両人とその母,妻を湯川河原において串刺しにされた。
只野が妻に対し詠んだ句
浅ましや 身をはただ野に 捨てられて 寝乱れ髪の 串のつらさや
片平の母が詠んだ句
かたひらの うすき情の 替わりつつ ひとへにつらき 夏衣哉
また,寛永年間(1624~1645年),城主が加藤明成の時代,現在の薬師河原において,罪人を処刑していた。
寛永15年(1638年)に島原の乱が終結,キリシタンが誅されて以来,日本国の全てで,この宗門は厳しくご法度である。
この頃,横沢丹後という者の家で,伴天連を二重壁の中に隠しているのが探し出され,寛永12年(1635年)12月28日,伴天連を初め,横沢丹後の一族もともに,南無阿弥陀仏と六字名号を書いた紙ののぼりを後ろに差し,浄土数珠を首にかけさせた上で,薬師堂にて逆さ磔にされたが,幼い子供までも,少しも極刑にされることを恐れず,上天明朗と唱え,我先にと死を争った。
なお,日本国の者を逆さ磔にかけるときは日を経たないで落命したが,異国の者のためか,伴天連は十七夜を経て落命した。
さて,ある人は男女の磔のある時に,大川の下へ殺生(川漁のことか)に行き,夜更けて薬師堂を通ると,磔柱の下に手毬のような青い玉が2つ転びまわり,磔柱に上下してしばらくあったが,やがてぱっと消えるのを見たという。これは人魂の類である。
2 解説
蘆名盛隆は蘆名氏18代当主で,天正8年(1580年)に当主として実権を握るも,天正12年(1584年)に寵臣に暗殺された人物である。
上記の中で処刑されたとする「片平氏」についてであるが,現在の郡山市片平に存在していた「片平舘」の城主,「片平親綱」を指しているのではないかと思われる。
同人は蘆名氏に属していたが,伊達政宗が侵攻すると伊達氏に寝返ったため,その母が処刑されたとする文献があるためである(なお,片平親綱自身は,兄の大内定綱と供に,その後伊達氏に仕えたとある。)
なお,「只野氏」がどのような人物かは不明であるが,恐らく只野=多田野で,郡山市逢瀬町多田野に存在していたという多田野館に縁のある人物であろうか(片平と多田野はち近く,いずれの人物も伊達氏に寝返ったと考えるのが自然である。)。
上記の話からすると,蘆名氏の時代と加藤氏の時代では,処刑場が異なることが伺える(伴天連=ばてれん,宣教師が処刑されたのは,加藤氏の先々代の領主である蒲生氏がキリシタン大名であったので,その名残で会津に宣教師がいたのだろうか。)。