長野県上田市には,かつて上田城が存在していた。
同城は,天正11年(1583年)に真田昌幸の手により築城された平城で,元々,この付近には,土豪小泉氏の城館が存在していたのだという(二の丸の西側に小泉曲輪付近だという。)。
元々武田氏の家臣であった昌幸だが,天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は臣従する相手を巧みに渡り歩いていたが,天正13年(1585年)に臣従していた徳川家康と対立,家康に同城に攻め込まれるが,見事撃破に成功している。
徳川氏とは,慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦時においても対立,再度同城に攻め込まれているが,やはりこの際も昌幸は徳川氏を撃退,むしろ,同城に敵を引きつけ,関ヶ原本戦には遅延させてまでいる。
ただ,関ヶ原の戦いでは徳川氏の東軍が勝利したため,西軍についていた昌幸・信繫(幸村)親子は紀伊国九度山に配流,その際,同城は徹底的に破壊されている。
その後,同地に仙石氏が移封されると,寛永3年(1626年)に幕府の許可を得て上田城を普請,以後,上田藩の藩庁として機能していた。
ところで,真田昌幸が同城を築城した際の頃,次のような伝承が存在していたのだという。
それは,同城完成直後,土豪・小泉氏の館城があった一角(小泉曲輪か)では,夜な夜な軍勢の雄たけびや甲冑のこすれあう奇妙な音が聞こえていたのだという。
昌幸は小泉氏を滅ぼしていたので,その怨念が残されていたのかも知れない。
なお,この怨霊に対し,昌幸は武田信玄の二男で僧侶の龍宝(海野信親)を招き供養してもらったとする文献もあるが,龍宝は天正10年に死亡しているため少し信憑性に乏しい話であるといえる。
ただ,もしかすると,小泉曲輪には,昌幸に滅ぼされた小泉氏の怨念が今も残されているのかも知れない。