佐和山城は滋賀県彦根市にある佐和山に存在していた山城で,豊臣秀吉の家臣で五奉行の一人である石田三成の居城として有名である。
同城は近江国の守護をしていた佐々木氏の一族が建久年間(1190~1198年)に砦を築いたのがその始まりとされるのだという。
佐々木氏は後に六角氏として同地周辺を支配していたのだが,戦国時代に入るとその勢力は衰退,代わりに新興勢力である浅井氏が勢力を伸張,やがて,同城も浅井氏の支配下に収まり,浅井氏家臣・磯野氏が入城することになる。
元亀元年(1570年),浅井氏と朝倉氏の連合軍と,織田氏と徳川氏の連合軍との戦いである姉川の合戦が勃発,浅井・朝倉氏の連合軍が敗れた後,織田氏の侵攻は活発化し,浅井氏の居城である小谷城の支城として機能していた佐和山城はついに孤立してしまう。
当時,同城を守備していた磯野員昌は,姉川の合戦で信長の本陣に迫る猛攻を仕掛けた勇将であり,8ヶ月に及ぶ奮闘を続けたが,結局,同2年(1571年),信長に降伏する道を選択する。
員昌の降伏後には織田氏家臣・丹羽長秀が入城し,同地の支配拠点として機能することになる。
天正10年(1582年),織田信長が本能寺の変で横死後,同城は明智光秀討伐に功績のあった堀秀政に与えられたが,以降,羽柴(豊臣)氏支配下の城という形になる。
堀秀政以降,堀尾氏,続いて石田氏が入城し,石田氏の時代,山頂に5層(または3層)の天守を有する近世城郭を築いたのだという(ただし,石田三成自体は豊臣政権下の奉行職が忙しく,同城には父・正継が任されていたのだという。)。
そして慶長5年(1600年),自らが首謀者として引き起こした関ヶ原の合戦に三成は敗れると,徳川家康は同戦いで東軍に寝返った小早川秀秋を先鋒として同城の攻撃を命じる。
小早川軍の兵力は約1万5000に対し,同城は大半の兵力を関ヶ原の戦いに供出していたため,約2800の守備隊が残るだけであったのだという。
それでも,攻め寄せる小早川軍に対して奮闘を続ける守備側だが,ついに内応者が発生,敵を引き入れたためついには落城,三成の父・正継,兄・正澄,三成の妻など,一族の者は戦死したり自害して果てたのだという。
また,この戦いにおいて,女子供達は「女郎谷」と呼ばれる谷に身を投じ,辺り一面,紅色に染めたのだという。
そのためか,同谷では,雨の降り続く夜などには,むせび泣くような女性の声が聞こえてくると言われている。
その他,同城では武者と思しき幽霊の目撃談があるといい,未だ落城の無念を抱き成仏できない幽霊がいるのやも知れない。