鏡山城は広島県東広島市に存在した山城で,現在は国の史跡に指定されている。
同城は南北朝時代に築城されたと言われている城で,応仁の乱(応仁元年(1467年)~文明9年(1477年))の時代になると,同城のある安芸国内も東軍と西軍に分かれ合戦が繰り広げられるようになり,同城も武田氏や小早川氏の攻撃を受けたのだという。
そして,戦国時代に入ってもこの城の重要性は変わらず,周防国・長門国の戦国大名・山口氏の安芸国支配の重要拠点として機能を続けていた。
ところが,大内氏が九州へ出陣している隙を突き,出雲国の戦国大名・尼子氏が安芸国へ侵攻を開始する。
そして大永3年(1523年),当時尼子氏の傘下にいた毛利氏は,当主・幸若丸がまだ9歳と幼年のため,叔父に当たる毛利元就が後見人として吉川氏とともに約4000の兵で鏡山城を攻撃する。
この時,鏡山城は蔵田房信が大将として,そして叔父の蔵田直信が副将として入城,毛利・吉川連合軍の攻撃を迎え撃ち,膠着状態に突入していた。
そこで,元就は一計を案じ,直信に蔵田氏の家督を継がせることをちらつかせて寝返らせることに成功,直信の手引きにより二の丸に突入された房信らは大混乱に陥り,結局,妻子や城兵の助命を条件に房信は自刃して果てる。
なお,寝返った直信はそのことを非難され尼子氏に処刑されたほか,尼子氏は元就に恩賞を与えなかったとも言われている(尼子氏は元就を警戒し,また,元就は尼子氏に不信感を抱く結果となった。)。
その後,大永5年(1525年),大内氏は同城の奪還に成功しているが,その後,別に城を築城したこともあり,鏡山城についてはこの頃廃城となっているようである。
応仁の乱から戦国時代にかけ,いくつかの合戦を経験したことのある同城では,数多くの戦死者が出たのだろうか,残されている井戸からうめき声が聞こえる,落ち武者の幽霊が現れるという噂や,慰霊碑付近で謎の人影が目撃されたり,誰も乗らないブランコが勝手に動き出すという現象が発生すると言われているのだという。