忍城は埼玉県行田市に存在していた平城で,北を利根川,南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした堅城で,戦国時代には関東七名城の一つにも数えられていた。
同城は文明年間(1469~1487年)頃,地元の豪族である成田氏の手により築城されたものと言われている。
この地は戦国時代に入ると,北条氏の侵攻が目立つようになるが成田氏はこれに反発,永禄2年(1559年),越後国の上杉謙信が関東に遠征すると成田氏は上杉氏に恭順の意向を示し,永禄4年(1561年)の小田原城攻めにも傘下している。
ところが,同年,謙信が関東管領に就任した後に成田氏は離反,そのため,永禄6年(1563年)には謙信に同城を攻められたため,当主・成田長泰は降伏,隠居を余儀なくされてしまう。
長泰の跡を継いだ氏長は当初上杉氏に従属していたが,上杉氏が劣勢になるのを見ると離反(そのため,天正2年(1574年)に同城を包囲されているが持ちこたえた。),北条氏,織田氏,そして北条氏とその従属先を転々と変えている。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際には,氏長は小田原城へ籠城におり,忍城は一門の成田泰季以下約3000名の者が籠城していた。
対する豊臣軍は石田三成を総大将とし,この地に石田堤と呼ばれる巨大な堤防を造成,水攻めにしたがかろうじて本丸は沈まず,「忍の浮き城」と呼ばれる状態になる。
この状態に対抗するため,成田氏方は夜間,密かに堤防を決壊させたところ,これまでの大雨で溜まった水が抜け出してその濁流により豊臣軍では270名の死者が発生,また,濁流が周囲に広まった結果,同城の周りは泥沼と化してしまい豊臣軍も攻めあぐね,結局,小田原征伐で唯一落城せず開城した城となった。
後,関東に入封した徳川家康の支配下になった同城は忍藩の藩庁として機能,現在は城跡として整備されているが,上記の水攻めによる死者が出た歴史があることからか,同城では,水死したと思われる武士の幽霊が出没する等といわれているそうである(なお,当然ながら,水死という死因以外で死亡した武士もいるはずであり,必ずしも水死と断定できる訳ではないと思われる。)。