雉岡城は埼玉県本庄市に存在していた平山城で,八幡山という場所の独立丘陵に築かれたことから,別名八幡山城とも呼ばれていた。
同城は15世紀頃,この地に勢力を有していた山内上杉氏の手により築城されたとされている(なお,同地には,鎌倉時代頃から武士が居住していたと考えられているそうである。)。
この地は後に北条氏が進出,山内上杉氏は勢力を弱め,永禄年間(1558~1570年)には北条氏の持城となり,北条氏邦により管理されていた。
同城はその後,上杉氏や武田氏の同地争奪戦の舞台となるが,天正10年(1582年),武田氏が滅亡,そして織田信長が本能寺の変で横死した後に発生した神流川の戦い(北条氏と織田氏家臣・滝川一益の戦い)で北条氏が勝利すると同地は北条氏が支配することが確定,北条氏は同城に横地忠晴を城代として配置した。
天正18年(1590年),豊臣秀吉による小田原征伐が行われると同城も攻撃を受け落城,伝承では,横地氏は大軍の豊臣軍に恐れをなして鉢形城に逃走したのだという。
小田原征伐後,この地は徳川家康の所領となり,同城に松平氏が1万石で入城するが,慶長6年(1601年),松平氏は三河国に転封となり,その際に同城は廃城とされたのだという。
さて,同城には,北条氏が支配,横地忠晴を城代としていたと思われる時期,次のような出来事が起きたという伝承がある。
忠晴の側女にお小夜という者がいたが,ある時,忠晴の奥方の不興を買い井戸に沈めら殺害された。
この際,お小夜は妊娠しており,彼女の死後,井戸や堀の水が乳色に変わり,夜な夜などこからか赤子の泣く声が聞こえてきたのだという。
そこで,井戸を攫うとそこには遺骸ではなく大小2つの石が出てきたので,お小夜と赤子が姿を変えたものとして奥方は深く後悔,堀端に丁寧に祀り,自身は出家したのだという。
そして,いつともなくこの石は夜泣き石と呼ばれるようになり,この石の側や上では女性の幽霊が現れると言われるようになったそうである。