勧農城は栃木県足利市にそびえる標高約54mの岩井山に存在していた平山城で,別名岩井山城・叶城とも呼ばれていた。
同城は明確な築城年は不明であるが,15世紀頃,関東管領(山内)上杉氏の家臣・長尾氏の手により築城されたものとされている。
享徳3年(1455年),鎌倉公方・足利成氏が,関東管領・上杉憲忠らを殺害したことにより享徳の乱が勃発すると,同城は成氏の勢力下にある下野国において,唯一の上杉氏の拠点として,激しい攻防戦が繰り広げられた。
また,享徳の乱終結後の長享元年(1487年),長尾氏が扇谷上杉氏と手を結び,関東管領山内上杉氏に反抗したため,山内上杉氏により同城を攻め込まれた(これが,山内上杉氏と扇谷上杉氏の間で繰り広げられた長享の乱のきっかけとなる。)。
その後,長尾氏は本拠地を足利城に移したたため,勧農城は足利城の支城として利用,そして,天正18年(1590年),豊臣秀吉の小田原征伐の際には,長尾氏は北条氏に与したため所領没収となり,その時期に勧農城は廃城とされた。
ところで,同地では時折,肝試しに訪れる者がいるそうであるが,そのような者の中には,森林の奥から足音,それも,鎧を着用した際に出るような音なども聞こえてくるという体験をする者もいるのだという。
また,同城付近を渡良瀬川が流れているが,同川は昭和22年(1947年)に発生したカスリーン台風で数多くの犠牲者を出したといい,その際,水死した方の遺体が同城付近に流れ着いたのだという。
現在,同地にはその際の犠牲者を祀る慰霊碑があるのだが,そこでも幽霊を目撃した,という話があるといい,これは,同台風の犠牲者ではないかと言われているそうである。