松倉城は岐阜県高山市にある標高約856mの松倉山に築城された山城で,昭和31年(1956年),同県の史跡に指定されている。
同城は,飛騨国の国人,姉小路頼綱が天正7年(1579年)に築城した城で,築城の後,同城を姉小路氏の拠点としている。
ところで,姉小路氏は織田氏と同盟関係を結んでおり,当時,北陸方面に進出していた織田氏家臣・佐々成政による越中国の上杉氏征伐に協力するなど,親織田氏勢力として,飛騨国での地位を保っていた。
しかし,天正10年(1982年),織田信長が本能寺の変で横死,織田氏では後継者争いに絡む権力争いが発生,姉小路氏は柴田勝家や佐々成政と行動を供にしていたこともあり,天正13年(1585年),姉小路氏は羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨国に侵攻,味方の裏切りもあり同城は落城した。
その後,同城は金森氏の支配下に置かれていたが,天正16年(1588年),高山城が築城されたことにより,同城は廃城とされた。
短期間で廃城となった同城には,実は悲しい話が残されいる。
昔,松倉城下のとある村に,小糸という齢10歳の,母子二人暮らしのいたいけな少女がいた。
ある日,小糸は,病身の母親のために草摘みに出かけたが,なぜかそのまま姿を消してしまった。
病身の母親は床から置き出て小糸を探したところ,いつも草摘みに来ていた場所に,小糸の持っていた竹編みの籠が捨て置かれていて,しかも辺りにはたくさんの人の足跡が残されていた。
実は,小糸は城普請役の武士に拉致されていた。
この頃,松倉城は改築工事を実施していたが,同城は険しい山地に築城されていたため工事が難航,その進捗もはかばかしくなく思わぬ事故も続いたため,城主が,人柱を捧げよと命じたのである。
この事実を知った母親は,その後,朝も夕も,築城工事が行われていた一帯を,「こいと~,こいと~」とその名を呼びながら捜し歩いていたのだが,ついには小糸の跡を追うように息絶えたのだという。
そして,それ以来,城跡では,「こいと~,こいと~」と呼ぶ声を聞いたという人は後を絶たないのだという。