福井県坂井市にある丸岡城は別名霞ヶ城とも呼ばれる,小高い丘陵に築かれた平山城で,国内に数少ない現存天守を有する城の一つである。
同城は天正4年(1976年),織田信長の家臣・柴田勝家の甥である柴田勝豊により築城された(勝豊は天正10年(1982年)に近江国長浜城へ移り,丸岡城には勝家が城代を配置した。)。
しかし,天正11年(1983年),勝家は羽柴秀吉により北ノ庄城で滅ぼされると,この地は織田氏家臣・丹羽長秀の領地となり,同城には青山氏が置かれた。
その後,慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で青山氏が西軍に与したため戦後改易,越前国は徳川家康の次男・結城秀康が支配(福井藩)することになり,同城には秀康家臣の今村氏が,同氏が慶長17年(1612年)に失脚すると今度は本多氏が入城し,さらに寛永元年(1624年)に秀康の跡を継いでいた松平忠直が豊後国に配流になると本多氏は福井藩から独立,丸岡藩を立藩する。
以後,同城は丸岡藩の藩庁として,本多氏,そして有馬氏を城主とし,明治維新まで至ることになるのである。
ところで,同城を柴田勝豊が築城した際,その工事は大分難航したらしく,人柱を立てたという伝承が残る。
この際,人柱に選ばれたのが,城下に住む「お静」という,夫に先立たれた貧しい隻眼の後家で,お静は2人の息子を侍に取り立てることを条件に,石垣の底に埋められた。
しかし,完成直後,勝豊は同城を去ることになり,お静との約束は果たされなかった。
それに激怒したお静の霊は片目の蛇の姿となり,城の井戸に棲み付いて暴れまわったのだという。
また,毎年4月,お堀の藻を刈る頃には同城は大雨に見舞われ,人々はこれを「お静の涙雨」と呼び,「堀の藻刈りに降る雨は いとしお静の涙雨」と謳われたのだという。
現在,同城には,上記の井戸やお静の慰霊碑が残されているそうである。
さらにもう一つ,同城に残る伝承として,別名「霞ヶ城」に関係すると思しきものがある。
ある時,敵の奇襲により,城が幾重に囲まれた時のこと,姫は「死してなお城を守らん」と告げ自害した。
そして,敵がまさに本丸の攻略を始めた最中,井戸より霞が噴き出し,敵は退却を余儀なくされたのだという(この井戸も残されているそうである。)。