中津城は大分県中津市に築城された平城で,堀には海水が引き込まれていることから海城とも呼ばれることもある(日本三大水城の一つ。)。別名,扇城。
同城は,天正16年(1588年),豊臣秀吉の軍師として有名な黒田官兵衛孝高が築城を開始,正式に完成したのは元和7年(1621年)のことという。
その間,同城は黒田氏から細川氏と城主が変遷(慶長5年(1600年)),さらに,寛永9年(1632年)には小笠原氏が同地に入封,中津藩が成立し,同城はその藩庁となる。
そして,享保2年(1717年)には奥平氏が入封し,その後,明治維新まで同地を支配することになる。
さて,この中津城では,黒田氏の時代,ある血なまぐさい事件が発生していた。
天正14年(1586年),豊臣秀吉が九州征伐をした際,この地を領していた城井鎮房は秀吉に従うものの,秀吉より指示された伊予国への転封に反発,新たにこの地の領主となった孝高との間に不穏な空気が流れる。
鎮房は一時居城・城井谷城を出て秀吉に本領安堵の嘆願を行うものの秀吉は鎮房の態度に立腹してそれを拒否,これに対し鎮房は城井谷城を奪還,籠城し秀吉と対立する道を選択する。
これに対し,孝高の子・長政が率いる豊臣勢が城井谷城に攻め込むものの,地の利を生かした攻撃を受け撃退されてしまう。
天然の要害である城井谷城を攻めあぐねた孝高は周囲に砦を築き鎮房の兵站を断つ持久戦を展開,その間,鎮房に味方する諸勢力を降していった。
そして,ついに鎮房は,自身の本領安堵と娘・鶴姫を人質とすることを条件に降伏することを決断する(鶴姫は長政に嫁いだとも。)。
しかし,鎮房ほか城井一族の懐柔は困難と見た長政は,禍根を断つため城井一族を滅ぼすことを決断する。
天正16年(1588年),鎮房は長政に中津城へ招かれる。その際,主だった家臣は合元寺という寺に留め置かれ(孝高が長政に授けた策という。),僅かな供を率い入城した鎮房らは酒宴の席で謀殺されてしまう。
また,合元寺の家臣団や鎮房の父・長房,嫡男・朝房も殺害されたほか,鶴姫も侍女13人とともに,広津の千本松河原にて磔刑に処せられた(なお,解任していた朝房の妻はかろうじて逃げ延びその後出産,城井氏の血脈は残された。)。
その後,同城には鎮房や鶴姫の怨念が残り,様々な災いをなしたと言われている。そして,現在も,同城にある城井神社では,黒田氏に殺された者達の霊を慰め祀り続けているのである。