永禄12年(1569年),甲斐国の武田信玄は約2万の兵を率い出陣,相模国の戦国大名・北条氏康の居城である小田原城を包囲する。
しかし,同城は過去,上杉謙信が約10万の兵に囲まれても耐え抜いた堅城であり,信玄も城下に火を放ちすぐに撤退することになる。
ちょうどその頃,氏康の三男・氏照が率いる約2万の兵が三増峠に布陣,甲斐国へ帰国しようとする武田氏の軍勢に対し,優位な位置から戦端を開き,ここに,戦国史上最大の山岳戦と言われる三増峠の戦いが開始される(なお,武田氏の背後からは,氏康の長男・氏政と二男・氏邦が率いる軍勢が挟撃する計画であった。)。
これに対し,信玄は部隊を3つに分け,三増峠にいる氏照の軍に応戦するが,その攻撃により,浅利信種や浦野重秀らが戦死するなど,武田氏は損害を受ける。
しかし,三増峠の南西にある志田峠に移動した武田氏の別働隊がより高所から三増峠へ奇襲を仕掛けたことから戦況は武田氏へと傾き,今度は北条氏が損害を受けることになる。
結果として武田氏側の勝利(なお,氏政らの率いた軍は本戦には間に合わず。)とされた三増峠の戦いでは,両軍ともに多くの戦死者が発生している。
伝承によれば,北条氏の追撃を受けて甲斐国へ逃げる武田氏の兵士が,村に広がる蕎麦畑を甲斐国からは見えない海と見間違え,道を間違えて敵国へ進入したと勘違いし自刃した,また,逆に武田氏の追撃を受けた北条氏の兵士が,とうもろこし畑を武田氏の槍がひしめく様子と見間違え,もはや逃げ場がないと勘違いし自刃した,のだという(そのため,蕎麦やとうもろこしの栽培を忌むのだという。)。
それほど多くの武者が命を落とした三増峠であるが,今もこの地では,峠を彷徨う武士の幽霊が目撃されると言われているそうである。
また,三増峠と関連して戦場となり戦死者の出たヤビツ峠では,命を落とした武士が餓鬼となり彷徨い食物を漁るため,同峠を通行する旅人の中には急に空腹になり歩行困難になることがある,それを回避するためには峠に食物を供えなければならないのだという。