福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

三方ヶ原の戦い(静岡県)

 元亀2年(1571年),室町幕府第15代将軍・足利義昭織田信長追討令を発出,それに応じた甲斐国武田信玄は,翌年,信長の同盟者・徳川家康の支配する三河国遠江国へ侵攻,さらには西上作戦を開始する。

 この西上作戦の過程でいくつかの戦いが武田軍と徳川軍との間で繰り広げられたが,武田軍の侵攻は止まらず,ついには家康の本城・浜松城にまで迫るかに見えた。
 しかし,信玄は浜松城を素通りし,その先にある三方ヶ原へと進行する素振りを見せる。

 これを見た家康は,家臣の反対を押し切り,三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍の背後を急襲するという作戦に出ることにし,信長からの援軍を率い城を出るが,夕刻,三方ヶ原に到着した家康の目に映ったのは,本来いないはずの武田軍が魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち受けている姿であった。

 家康は急遽,鶴翼の陣を敷き武田軍と交戦するが,不利な形で戦端が開かれたことも災いし日没までに武田軍に撃破,家康は命からがら浜松城へ逃げ延びた。
 この戦いでは,武田軍が200余の戦死者を出したことに対し,織田・徳川連合軍は有力な家臣を含め約2000余の戦死者を出したのだという。

 ところで,浜松城へ逃げ延びた家康は,全ての城門を開き,さらに篝火を焚くという「空城の計」を用いたといい,追撃してきた武田軍は,この空城の計により警戒心を煽られ,そのまま何もせず引き上げたという。

 また,同じ夜,家康は家臣に命じ,浜松城の北方約1kmのところにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍に夜襲を敢行,この攻撃で混乱した武田軍の兵士が崖から転落する,また,徳川軍が崖に布を張り,これを橋と誤認した武田軍の兵士がやはり崖から転落したのだという(犀ヶ崖の戦い。)。

 この戦いの後,犀ヶ崖ではうめき声や馬のいななき声が聞こえてくる,また,武田軍の兵士の祟りがある等と言われてきたそうである。

 ただ,この戦いは,徳川幕府の編纂した史料が初出であること,その内容が荒唐無稽な点もあり,本当にそのような戦いが行われたのか疑問符が付くものだそうである。