1 概要
福島市飯坂町にある大鳥中学校がある場所には,かつて、あた鎌倉時代にこの周辺を領していた佐藤氏の居城が存在していた。
より詳細に説明すると,同地には「舘ノ山公園」という公園があり,この公園がある舘ノ山が大鳥城跡とされ,同山東の山麓部に立地する同中学校付近に,後述する当時の領主佐藤庄司基治の居城が存在していたと推定されている。
佐藤基治は,源義経の郎党として名高い佐藤継信・忠信の父で,文治5年(1189年),義経と義経をかくまう奥州藤原氏を討つべく鎌倉の源頼朝が出陣した際には,基治は藤原氏側として参戦,「石那坂の戦い」において,鎌倉側の常陸入道念西(伊達氏の初代「伊達朝宗」と思われる人物)と戦い敗れ,首級を阿津賀志山に晒されたとも,赦されて所領に戻ったともいわれている。
こうした歴史的背景が原因なのか不明ではあるが,同校敷地内においては,鎧姿の武者の幽霊の目撃談があるとされている。
2 解説
石那坂の戦いについては,鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」に記述があるが,実のところ,どこで行われたのかという点については諸説あり現在のところ詳細な場所は不明な状態である。
また,この戦いで,佐藤基治が討ち死にしたかどうか,その点も不明である(吾妻鏡内では,佐藤庄司が討ち取られ首級を阿津賀志山に晒されたという記述と,佐藤庄司が戦後赦されて所領に戻ったという,2つの記述がなされており,同一人物か別人物か定かでない。)。
とはいえ,一族郎党の中から戦死者が出た可能性は大いに否定できず,それらの者の無念の思いが当時の城にとどまり,そして今に至るのかも知れない。
最後に,同城を巡る攻防戦が行われたか気になるところではあるが,戦後,佐藤庄司がこの城に戻り居城したと考えられていることからすると,攻防戦は行われていなかったのかも知れない。