福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

和田合戦(神奈川県)

 建暦3年(1213年),鎌倉幕府の有力御家人である和田義盛が幕府に対して反乱を起こした。

 義盛は相模国の豪族・三浦氏の一族で剛勇の士で,初代鎌倉幕府将軍源頼朝死後に発生していた御家人同士の争いで有力御家人が滅ぼされていく中,執権・北条氏に味方していたこともあり,幕府創業の功臣の一人として重んじられていた。

 しかし,建暦3年(1213年),泉親衛が幕府に対して反乱を起こすと,義盛の子・和田義直,義重,そして甥の胤長がその反乱に関与したとして幕府に捕縛されてしまう。
 これに対し義盛は一族の嘆願を将軍に要求,その結果,義盛の勲功に免じて義直と義重は赦免されるものの,胤長のみは赦免されなかった。子
 義盛はさらに一族を引き連れ胤長の赦免を求めるものの,そこに執権・北条義時が現れ,胤長は反乱の張本人として,和田一族の面前でこれを縛り上げ預かり人に下げ渡すという,和田一族に対する屈辱的な行動を取った。

 罪人とされた胤長は陸奥国岩瀬郡へ配流,その屋敷は没収されることになるが,義盛は,罪人の屋敷は一族に払い下げられるという当時の慣習を将軍に主張,これが一時認められる。

 ところが,義時は突然,この屋敷を泉親衛の乱の平定に功績のあった武将に与えると決めてしまう。

 この,一連の義時の行動に対し,ついに義盛は挙兵を決断する(しかし,義盛の孫・朝盛がこの挙兵に反対,京都に出奔するという騒ぎがあり,これにより挙兵に関する流言飛語が鎌倉に飛び交うことになる。)。

 和田勢は将軍の御所である大倉御所を包囲,一斉に攻撃をかけ,御所の警護衆との間で交戦を繰り広げた。
 しかし,幕府側には次々と新手が加わる一方,和田勢は兵糧や矢種が尽き,人馬も疲弊するに至り,ついに由比ガ浜まで撤退することになる。

 翌日,由比ガ浜にて合流した横山時兼と共に,再度和田勢は鎌倉に攻撃を仕掛けるが,やはり新手が加わる幕府軍の前に次第に兵力は減少,そして,義盛の子・義直が討ち取られてしまう。
 それに悲観した義盛の周囲には敵が襲いかかり義盛も,そして主だった子息達も討ち取られた。

 戦後,晒された和田一族の首級は234に上るといい,これにより和田一族は歴史上からほぼ滅亡することになる。

 現在,和田合戦に関連する史跡としては,江ノ島電鉄和田塚駅周辺にある和田塚がある。
 この塚は,明治25年(1892年),道路建設中,その一部を掘り返したところ無数の人骨が現れ,和田合戦の戦死者のものであろう,ということになり和田塚と呼ばれるようになったもののそうで,同42年(1909年)に「和田一族戦没地」と彫られた石碑が建立されたそうである。
 そして,同塚では,今なお鎧武者の幽霊が出没すると言われているそうである。ただ,同塚は住宅街にある場所なので,訪れる際には節度を持った行動を取る必要がある。