弘前市にある弘前城は別名鷹岡城,高岡城とも呼ばれた,津軽藩4万7000石の居城で,江戸時代に建造された天守や櫓が現存しているため,国の重要文化財,また,史跡に指定されている平山城である。
同城は,慶長8年(1603年),津軽為信の手により鷹岡の地に築城が開始されたが,翌年,津軽為信が京都で客死したため,築城が一時中断されてしまう。
後,跡を継いだ津軽信牧が工事を再開し慶長16年(1611年)に完成(当時の名称は鷹岡城)する。
しかし,寛永4年(1627年),落雷により火災が発生,その火が弾薬庫に引火して大爆発を引き起こし,5層6階の天守をはじめ本丸御殿,諸櫓が焼失するという大惨事となった。
その翌年,鷹岡の地を信牧が帰依する天海大僧正が名付けた「弘前」と変更することに決め,城名も弘前城と改めることになる。
その後,長らく天守は再建されなかったが,文化7年(1810年),三層櫓を新築することを幕府に願い出て許可され,現存する3層3階の御三階櫓(天守)が建てられることになる。
ところで,寛永4年の火災の際,燃えさかる炎の中に一人の女性が現れ,高笑いをしながら,
「私は津軽為信の義姉,夫を為信に殺された恨みである!」
と叫び,やがて崩壊する天守とともにその姿を消したのだという。
この女性は,津軽為信の妻,阿保良の姉(朝日御前)で,彼女は堤弾正左衛門という人物に嫁いでいたのだが,津軽為信が南部一族から決別した際,この堤弾正左衛門を裏切った。
そのため,朝日御前は堤弾正左衛門から離縁され,失意のうちに離縁の翌年病没,堤弾正左衛門もまた津軽為信に討たれた。
その朝日御前の怨霊が,弘前城に祟りを成したのだという。
なお,堤弾正左衛門が討たれたのは天正13年(1585年)のことで,朝日御前はこの戦いで生き残り,その後仏門に入り常福尼と名乗ったといい,若干,上記の話と齟齬があるが,津軽為信に夫を討たれた恨みがあるのは確かなようである。
そして,その恨みが今も残るのかどうか,残念ながら定かではない。