笠間城は茨城県笠間市にある佐白山に築かれた山城である。
同山に城が築かれることになる経緯であるが,鎌倉時代,この地には,真言宗の正福寺と徳蔵寺という2つの寺が勢力争いを繰り広げていた。
やがて,劣勢となった正福寺は,下野の守護である宇都宮頼綱に援軍を要請,これに対し頼綱は自身の甥である塩谷時朝を派遣した。
時朝は元久2年(1205年),佐白山麓に築城,徳蔵寺を滅ぼすが,時朝の築いた城があまりにも大きいため,今度は正福寺が時朝に敵対,時朝と正福寺も滅ぼしてしまう。
そして承久元年(1219年),時朝はより堅固な城を佐白山に築城,この城が笠間城であり,時朝自身も笠間氏を称し,同城を居城とした。
その後,笠間氏は18代続くことになるが,天正18年(1590年),18代笠間綱家の時代,宗家である宇都宮氏に逆らったため攻められ,笠間氏は滅亡を遂げている。
笠間氏滅亡後,笠間城には宇都宮氏,蒲生氏が入城した後,徳川氏が天下を統一し幕府を開くと,複数の大名が入れ替わりで笠間城に入り同地を治めていたが,最後は延享4年(1747年),譜代大名の牧野氏が入城後,廃藩まで牧野氏が8代,この地を統治している。
そして,廃藩の後は明治6年(1873年)の廃城令により建物は処分され,現在に至っている。
ところで,同城は茨城県有数,そして北関東屈指の心霊スポットとして名高い場所である。
有名な話としては,城址を僧兵が徘徊する,親子連れの武者の幽霊が現れる,すべて見つけると死ぬと言われる呪いの井戸がある(井戸では戦で敗れた武士が身を投じたのだという。)とされている。
これらの幽霊は,正福寺と徳蔵寺の戦いで死んだ者,また,笠間氏が滅んだ際に命を落とした者の幽霊なのだろうか(なお,笠間城は,南北朝時代に籠城戦を経験しており,他にも数多くの戦が繰り広げられたと思われる。)。
また,一説には,笠間城主やその家臣は代々,これら城内を徘徊する幽霊達に悩まされてきたのだという。
それだけ強い怨念が今も残る場所であり,危険な場所と言えるだろう。