治承4年(1180年),後白河天皇の第三皇子・以仁王の平家追討の令旨を受け信濃国を出陣した源義仲はその勢力を北陸道に大きく広げていた。
これに対し平家は寿永2年(1183年),平維盛を総大将とし,総勢10万騎と称する大軍を派遣,越前国の火打城では平家が勝利,義仲軍は一時越中国へ退却する。
この後,越中国に進出していた平家軍先遣隊は般若野の地で義仲軍先遣隊の奇襲を受けて敗北,逃走したため,平家軍は改めて能登国志雄山,そして加賀国と越中国の境にある砺波山の二手に陣を敷く。
義仲軍は志雄山に牽制部隊を送るとともに,本隊は砺波山へ,また,一部隊は平家軍の背後に迂回させる戦術を採る。
そして平家軍が寝静まった夜間,義仲軍は大きな音を立てながら奇襲を敢行,これに驚いた平家軍は退却しようとするが,背後に迂回していた義仲軍の別働隊に退路を阻まれ,唯一残されていた敵の攻め寄せてこない方面に退却するが,そこは倶利伽羅峠の断崖のため兵士は次々と転落,兵士の半数を失い,命からがら退却することになる。これが後世,倶利伽羅峠の戦いと呼ばれる戦いである(なお,巷間では義仲軍は火の付いた松明をつけた無数の牛を突入させたとも言われているが,その戦術については疑問がもたれているそうである。)。
ところで,この戦いにおいては,戦死した兵士の遺骸で谷が溢れかえり,流れる川は血で染まったと言われる程のものだったのだそうである。
そして,この地は,今もなお浮かばれない魂がいるのだと言われ,甲冑が擦れるような金属音や空を切る刀の音が聞こえてくるという怪奇現象のほか,当時の兵士や武士の幽霊が現れるのだと言われているそうである。