天文17年(1548年),甲斐国の武田晴信は信濃国にて,北信濃の戦国大名・村上義清と上田原にて交戦する。
天文10年(1541年),父・信虎を駿河国へ追放し武田氏の当主となった晴信は,以降連戦連勝,信濃国へ侵攻するようになる。
対する村上氏の当主・義清は猛将として知られる武将で,同人の時代,村上氏の最盛期を迎えていた。
武田勢約8000,村上勢約5000とされる両軍勢の戦いであるが,当初,武田勢が優勢に戦いを進めていたが,先鋒の板垣勢が敵陣深く突出,勝ちに奢り,そのまま首実検を始めてしまう。
その隙を村上勢は見過ごさず反撃,不意を疲れた板垣勢は崩れ,そのまま勢いに乗じる村上勢は後続の武田勢を突き崩した。
この戦いでは,武田氏の重臣である板垣信方と甘利虎泰が,重臣以外にも才間河内守,初鹿伝右衛門が討ち取られたほか,晴信自身も手傷を負ったとされている。
また,村上氏も,屋代基綱,小島権兵衛,雨宮正利といった諸将が討死を遂げている。
名だたる武将を始めとし多くの将兵が戦死したとされるこの上田原の戦いの地は現在,古戦場跡を示す石碑等が建てられているのだが,噂では,この周辺にある小さな丘が,戦死した者達の遺体を山積みにした場所なのだと言われているそうである。
そして,この周辺の建物では,謎の黒い人影が現れるとされるそうで,その原因こそ,この戦いで命を落とした者の幽霊ではないか,そう言われているそうである。