福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

関ヶ原の戦い(岐阜県)

 慶長3年(1598年),天下を統一した豊臣秀吉が病没する。

 そして,秀吉亡き後,その勢力を拡大していた徳川家康と,その勢力拡大により豊臣氏が滅亡することを危惧した石田三成の間で繰り広げられたのが,慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の合戦である。

 家康率いる東軍約7万~10万,三成率いる西軍約8万の軍勢が関ヶ原に集結,前哨戦(杭瀬川の戦い)を経た後,9月15日に決戦が開始,1日で勝敗が決まる。

 この戦いでは,西軍側の宇喜多秀家(兵力約1万7000),石田三成(兵力約6000),小西行長(兵力約4000),大谷吉継(兵力約1500)らが奮戦するものの,吉川広家(兵力約3000)が東軍に内通していた影響で毛利秀元(兵力約1万3000),長宗我部盛親(兵力約6000)らが参戦することができなかったほか,やはり東軍に内通していた小早川秀秋(兵力約1万5000)が戦闘中寝返るなど,西軍が不利な情勢であった。

 特に,秀秋は寝返り後,吉継軍に攻撃を仕掛けたが,その際,吉継とともに行動をしていた脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保ら約4000が東軍に寝返り吉継を攻撃したため吉継軍は壊滅的な損害を受け,ついに吉継は自刃して果てる。

 また,東軍の勝利が確定した後も戦場に留まり続けていた島津義弘(兵力約1000,ただし,戦場では兵を動かさなかったのだという。)は敵中突破を決断,甥・島津豊久重臣・長寿院盛淳が戦死するという犠牲を払いながらも,東軍の井伊直政松平忠吉(家康の子)に負傷を負わせつつ戦線離脱に成功している(ただし,薩摩国に辿り着いたのは80余名だったという。)。

 天下分け目の合戦と称されたこの戦いにおいては,名だたる大名,武将を含め,両軍合わせて約1万~4万の戦死者が発生したのだと言われている。

 現在は関ヶ原古戦場として多くの観光客が訪れる場所になっているのだが,やはり,それだけ多くの戦死者が出た影響か,訪れた者の中には原因不明の体調不良に陥る,甲冑が擦れるような金属音が聞こえてくる,鬨の声のような喚声が聞こえてくるという怪奇現象を体験する者のほか,鎧姿の武者の幽霊を目撃するという話が有名なのだそうである。