福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

小牧・長久手の戦い(愛知県)

 小牧・長久手の戦い天正12年(1584年)に発生した複数個所での戦いであるが,今回ご紹介するのは,その中での戦いの一つ,長久手の戦いとなる。

 天正10年(1582年),織田信長明智光秀の反逆により本能寺にて横死すると,信長の長男・信忠の長男(信長の孫)・三法師を後継者に推す羽柴秀吉と信長の重臣柴田勝家が敵対化する。

 そして天正11年(1583年),秀吉は勝家を滅ぼした後,信長の二男・信雄を三法師の後見役として安土城に入城させるが,秀吉はすぐに信雄を同城より退去させてしまう。
 このことにより秀吉と信雄の関係が悪化,秀吉は信雄の家老を取り込み懐柔を図るが,信雄は徳川家康と同盟を結び,その上で秀吉派の家老を処刑してしまう。

 この措置に激怒した秀吉は天正12年,信雄に対し出陣を決断,対する信雄は家康とともに秀吉の軍勢に対峙することになる。

 ところで,長久手の戦いは,秀吉に与した池田恒興,元助・輝政兄弟,森長可(恒興の娘婿)の率いる約9000が,家康,家康の家臣・井伊直政,信雄の率いる約9000の兵が激突したが,この戦いが起きる前には,以下のような前提があった。

 長久手の戦いが起きる前,恒興と長可は協同戦を繰り広げていたが,長可勢が突出しすぎたところを徳川軍に攻撃され,300余の戦死者を出す戦いがあった(羽黒の戦い)。

 この戦いの後,恒興は長可とともに秀吉の元を訪れ,羽黒の戦いの雪辱を晴らすべく,家康の領国・三河国へ侵出,そうすれば家康は重要地点である小牧を放棄するだろうという,「中入り」という戦術を献策,秀吉もついにこれを受け入れ,第一隊を恒興,第二隊を長可,第三隊を堀秀政,第四隊を羽柴秀次が率い出陣する。

 出陣した部隊は,まず第一隊が岩崎城を攻撃,これを落城させ,第二隊とともに同城を占領していたが,実はその間,第三隊と第四隊は徳川軍の攻撃を受け敗走ないし後退していた。

 そして,背後に徳川軍が迫ることを知った第一隊・第二隊も後退を始めたが,すでにその時には家康・信雄軍が陣を構えており,ここについに,長久手の戦いが開始されることになる。

 約2時間余りに及び激戦が続いたこの戦いでは,前線で指揮をしていた長可が眉間に銃撃を受け戦死,これにより徳川軍が優勢となる。
 これに対し,何とか軍勢の建て直しを試みた恒興,そして元助の両名も討ち取られ,ついに池田・森軍は敗北,輝政のみ,家臣の説得により戦場を脱出することができた。この戦いでは,徳川軍約590,池田・森軍約2500の戦死者が発生したのだという。

 長久手の戦いが行われた古戦場は昭和14年(1939年)に国の史跡として指定されているほか,長可や恒興,元助がが討ち取られた場所とされる「武蔵塚」,「勝入塚」,「庄九郎塚」のほか,家康の家臣・渡辺守綱らが血の付いた槍や刀を洗った場所とされる「血の池公園」(現在池はない)などの史跡が残されている。

 ところで,長久手古戦場では現在も,当時討死したと思われる武者の幽霊が目撃されることがあるのだと言われている。
 また,当時の幽霊だけではない,近・現代の幽霊も現れるそうである(この地では自殺を遂げる者が多いのだという。)。