静岡県掛川市に存在した高天神城は,海抜約132m,周囲との比高約100mの場所に築かれた,小規模ながら堅固な山城で,別名舞鶴城の名もある城である。
同城がいつ頃築城されたのか,その明確な時期は不明であるが,出土した陶器類が15世紀後半から16世紀前半の物であることから,この地方が今川氏の進出する以前,在地勢力により利用されていたと伺わせており,今川氏進出後は,家臣・福島氏が城代として同城に入城していたようである。
その福島氏であるが,天文5年(1536年)に発生した「花倉の乱」(今川氏当主・氏輝とその弟・彦五郎が相次いで死亡したことに端を発するお家騒動)で没落,天神山城には新たに小笠原氏が城代として入城する。
花倉の乱で今川氏の家督を相続したのは今川義元で,その後,順調に支配地域を拡大するのだが,永禄3年(1560年),桶狭間にて織田信長に敗れ討死してしまう。
義元の跡を継いだのは嫡子・氏真であるが,義元ほどの才覚はなく,傘下の松平氏(徳川氏)の離反を招くほか,永禄12年(1569年)には同盟関係にあった武田氏が同盟を解消,徳川氏と同盟を結び駿河へと侵攻,これにより今川氏は滅亡する。
駿河侵攻により,小笠原氏は徳川氏配下となるが,やがて徳川氏と武田氏の関係は悪化,駿河国と遠江国の国境近くに存在する高天神城は,両者の戦いの舞台となる。
高天神城を巡る武田氏と徳川氏の戦いは,
元亀2年(1571年)
武田信玄,約2万5000の兵を率い三河国,遠江国に侵攻,その際高天神城を攻めるが一日で撤退。
元亀3年(1572年)
武田信玄,遠江国を侵攻,二俣城を落とし高天神城を孤立させるが,同城は落城するに至らず。
天正2年(1574年)
武田勝頼,約2万5000の兵を率い高天神城を攻撃,城代の小笠原氏は約1000の兵力しかなく開城
天正8年(1580年)
徳川家康,高天神城を包囲,兵糧攻めとする(同年,同城周囲に砦を造り,すでに補給路は断たれていた。)。
この兵糧攻めにより,同城側では多数の餓死者が発生する。
天正9年(1581年)
高天神城城代岡部元信,城を出て敵陣に突撃,同人以下約700余名が討死したほか,武田氏方の名のある武将の多くは捕縛・処刑される。
という,壮絶な戦いが繰り広げられてきた歴史があることが分かる。
高天神城はその後そのまま廃城となるが,同城の山頂には高天神社があり,山自体は地元のシンボル的存在の役割を続けることになったのだという。
さて,これだけ壮絶な戦いの歴史を持つ高天神城では,訪れた者の中には,鎧姿の落ち武者と思しき幽霊を目撃したという話があるそうである。
もしかすると,それはこの地で非業の死を遂げた武田氏の武将や兵士の幽霊なのかも知れない。