寿永2年(1183年),圧倒的兵力で源義仲軍に迫った平家軍は,倶利伽羅峠において義仲軍の奇襲攻撃を受け大打撃を受けてしまう。
そのため,平家軍は北陸道を京都方面へ向かい逃走していたが,義仲軍はすぐさま追撃を開始,ついに,加賀国の篠原の地で平家軍を捉えることに成功する。
倶利伽羅峠の戦いで敗北したとはいえ,数万の軍勢がいた平家軍であるが,すでに交戦能力を失っていたこともあり壊滅的被害を受けることになる。
それは,平家一門である平知度(平清盛の七男)や斎藤実盛(齢70を超える老将で,若々しく戦いたいという理由から髪を黒く染めて戦った。)などが戦死したことからも伺える。
ところで,この戦いの後,討ち取られた平家側の武将の首は戦場近くの小さな池で洗われた(この際,実盛の首を洗ったところ,染めていた髪が白くなり,その首が実盛の者と判明したのだといい,かつて実盛に命を救われたことのある義仲は号泣したのだという。)のだという。
そのため,この池は「首洗池」と呼ばれるようになるのだが,この場所ではその後,戦いで命を失った武士の魂が彷徨うとされ,今もなお,武士の幽霊が目撃されることがあると囁かれているそうである。