福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

賎ヶ岳の戦い(滋賀県)

 天正10年(1582年),織田信長明智光秀の反逆により本能寺にて横死すると,信長の長男・信忠の長男(信長の孫)・三法師を後継者に推す羽柴秀吉と,信長の三男・織田信孝を後継者に推す重臣柴田勝家が敵対化する。

 そのため,両陣営は諸勢力を自身に協力させようとさまざまな調略を実施していたが,やがて,勝家の本拠地・越前国が降雪し,勝家の身動きが取れなくなった隙に秀吉は近江国長浜城を攻撃,勝家の養子である勝豊を降伏させたほか,美濃国岐阜城の信孝をも降伏させた。
 また,天正11年(1583年)正月,伊勢国滝川一益は勝家側に与することを鮮明にして挙兵,秀吉との間で戦闘を繰り広げる。

 一方,降雪で身動きの取れない勝家であったが,次々と変化する情勢に耐え切れずついには2月末,未だ雪の残る中を近江国へ向けて出陣することを決意,勝家の軍は近江国柳ヶ瀬に,秀吉は木ノ本に布陣,両軍は対峙することになる。

 その間,一度は秀吉に降伏した信孝が一益と結び挙兵,岐阜城下へ迫ったため,秀吉は美濃国へ侵出する。
 これを好機と見た勝家の甥・佐久間盛政は勝家に具申の上で大岩山砦へ出陣,同砦を守る中川清秀を討ち取るほか,岩崎山に陣を取る高山重友も撃破する。
 その戦果に満足した勝家は盛政に撤退命令を下すが,何故か盛政は撤退せず,前線に留まり続けた。

 丁度この頃,賎ヶ岳砦を守備していた桑山重晴は自軍が劣勢であると判断,撤退を開始していたが,丁度丹羽長秀の率いる部隊と合流,これにより戦局は変化することになり,両者の軍は同砦付近に展開していた盛政の部隊を撃退することに成功する。

 また,大岩山砦等の要衝が陥落したことを知った秀吉は,滞在していた大垣から木ノ本までの約13里(約52Km)を僅か5時間で移動,翌朝未明,盛政と盛政の弟・柴田勝政の間で激しい戦闘が繰り広げられた。

 そして,この戦いの最中,茂山に布陣していた前田利家の部隊が突如として戦線離脱,そのため,柴田軍の士気を大きく下げてしまうことになる。これは,利家が早くから秀吉に内通していたことが理由ではないかと考えられている。
 そのため,利家の部隊と対峙していた秀吉軍の部隊がそのまま柴田軍へ雪崩れ込むことになる。

 さらに,柴田軍の不破勝光・金森長近も退却,ついに,盛政の軍を破った羽柴軍はそのまま勝家本隊へ殺到,多勢に無勢の状況を猛将と言われた勝家でも支えきれずついには北ノ庄城へと敗走することになるのである。

 賎ヶ岳の戦いでは多くの将兵が討ち取られ,また,首を刎ねられたのだとされている。
 そのためか,首のない鎧武者の目撃談のほか,甲冑が擦れる音のような,謎の金属音が聞こえてくるという怪奇現象が発生するのだという。
 また,「首を刎ねられた」ということに関連してか,同地では首にまつわる事件・事故が発生しているのだと言われており,一説には,これらは「柴田勝家の呪い」と噂されることもあるそうである(なお,柴田勝家は同地ではなく,北ノ庄城にて自害して果てている)。