宮崎城は宮崎県宮崎市に存在していた山城である。
同城は建武2年(1335年)または延元元年(1336年),南朝方の図師六道入道隋円,慈円親子が築城されたのだという。
ただ,図師氏は北朝方の土持氏の攻撃を受け同城も落城,その後,土持氏の持城であったが,文安4年(1446年),同地に勢力を伸ばしていた伊東氏が攻略,同氏の持城となり,「伊東四十八城」の一つとなる。
しかし,伊東氏は北上する島津氏に駆逐され,同城も島津氏の持城となるが,天正15年(1587年),豊臣秀吉の九州征伐により島津氏は放逐,同城は高橋元種の所領となる。
そして慶長5年(1600年)に発生した関ヶ原の合戦において,元種は本戦には参加せず,大垣城に入城,当初,西軍に与していた(ただし,後に東軍に寝返る。)。
そのため,所領の宮崎城は東軍方約3000に攻め込まれてしまう。同城を守備するのは約500あまりのため,同城は僅か一日で落城,この際,数多くの戦死者が出たという(一説には700人あまりの戦死者が出たとも。これは両軍合わせての数だろうか。なお,同城は元和5年(1615年)の一国一城令により廃城となる。)。
関ヶ原の戦いに関連し多くの戦死者を出した同城では,今も戦死した武士やその妻の幽霊が徘徊していると言われており,そのためなのか,女性のすすり泣く声が聞こえてくる,また,火の玉が宙を浮遊していると噂されているそうである。