岸岳城は佐賀県唐津市にそびえる標高約320mの鬼子嶽に存在していた山城で,元々は鬼子岳城と漢字表記されていた城である。
同城は12世紀頃,水軍として有名な松浦党の一族,松浦持の手により築城されたと言われており,彼の子孫は以後,波多の姓を名乗り,約400年後,17代まで続いていた。
17代当主・波多親は天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐の折には早い段階で秀吉に謁見をしていたが,九州征伐において出兵せず,不興を買っていた。
しかし,親の所領は朝鮮出兵の拠点になる場所にあり,その利用価値を秀吉も認めていたこと,同じ九州に勢力を有する龍造氏からの取り成しもあり所領は安堵,豊臣氏の直臣という扱いになる。
ところが,秀吉が朝鮮出兵の拠点として名護屋の地(親の所領)に城を築くことを提起したところ,親は同地に本営を築くことは不向きであると進言したこと,秀吉が博多に着陣した際に遅参したこと,文禄の役で軍令違反や卑怯な振る舞いがあったため秀吉の不興を買い,ついには文禄2年(1593年)に召還を命じられ,名護屋城に滞在する秀吉に謁見することも出来ないまま,船上で今までの落ち度を責められる書状を渡されて所領没収,徳川家康の預かり,という処置を受けたと言われている。
この後,同地は寺沢広高に与えられ,岸岳城も廃城ととされたが,その際,波多氏の一族郎党・家臣の中には切腹した者も出ており,山腹にはその墓が残されている(百人規模で切腹したのだという。)。
そして以後,同地には,「岸岳末孫」と呼ばれる,恨みを抱えたまま成仏できずに彷徨う怨霊が数多く現れると言われており,現在は九州北部有数の心霊スポットであると囁かれている場所となっている(また,城の東側には,「姫落とし」と呼ばれる絶壁があるが,これは,波多氏没落後残党狩りが行われ,その際,姫が捕まり慰み者にされることを恐れた一族がここから姫を突き落とした,という伝承があるのだという。)。