飯詰城は五所川原市にあった平山城で,妙竜寺の東背後,標高約58m程度の高台に存在していた。
同城は,康永3年/興国5年(1344年),万里小路藤房の息子とされる朝日景房が築城したと言われている。
この朝日氏は,北畠氏の流れを汲むとされる浪岡氏に仕えていたが,天正16年(1588年),津軽統一を目論む大浦為信(後の津軽為信)の攻撃を受け城は落城,万里小路藤房より数えて十代目の朝日行安は自害,朝日一族も徹底的に捜索された上で殺害され,滅亡を遂げる。
なお,この戦いの最中,水脈を断ち切られた朝日氏は,白米で馬を洗い,余裕があるように見せる(遠目で見ると水で洗っているように見える。)など必死の抵抗をしたと言われている。
この落城の後,同城では鎧武者や女性の幽霊が出没した,また,天候不順による長雨が続くことが発生,これらは朝日一族の祟りではないかと囁かれたのだという。
また,現在も子供の幽霊の目撃談があるのだと言われてもいるそうであるが,合戦で亡くなった子供かどうか,関連は不明である。
最後に,上記の話については,偽書である「東日流外三郡誌」に影響を受けた書物でしか確認できない事項があるといい,その信憑性に関しては聊か疑う点があるので,留意する必要がある。