石川県加賀市にそびえる標高約70mの錦城山に存在していた平山城が大聖寺城で,別名錦城とも呼ばれていた。
同城は鎌倉時代,狩野氏により築城されたものと言われており,建武2年(1335年)に発生した中先代の乱においては,呼応した名越時兼(北条時兼とも)が3万騎余を率いて上洛を目指すも,同城に拠り迎撃した狩野氏の一族に討ち取られたのだという。
また,建武4年(1337年)には,新田義貞に加担した敷地氏・山岸氏が,同城を守る津葉氏の攻略をしている。
この,後戦国時代に入ると,同城は一向一揆の拠点として用いられたため,天文24年(1555年)には朝倉氏の名将・朝倉宗滴により僅か1日で落城したほか,永禄10年(1567年)には,堀江景忠が一向一揆と通じて朝倉氏に反乱を起こした際,同城を焼き払い朝倉氏と和議を結んだのだという。
天正3年(1575年)になると,越前国を平定した織田信長の勢力が加賀国にも侵攻することになり,同地を平定した後,家臣・柴田勝家に命じ,同城の修復を行う。
以後,城主は幾度か変遷し,慶長3年(1598年)には,小早川秀秋の家臣で同城を預けられていた山口宗永が独立大名として取り立てられた。
慶長5年(1600年)に発生した関ヶ原の戦いにおいて,宗永は西軍に参加,そのため,加賀国の前田利長の率いる約2万の軍勢に攻め込まれる。
宗永,そして息子の宗弘は同城において交戦するものの,約500余しかいない兵力では敵うはずはなく,利長に対し降伏の意思を伝えるものの,すでに多くの兵を失っていた利長はこれを許さず城内に突入,同城は陥落し宗永と宗弘は自刃して果てた。
以後,同城は前田氏の持城となるが,元和元年(1615年),江戸幕府より一国一城令が出されると廃城とされたのである。
現在錦城山公園として整備されている同城だが,鎌倉時代から戦国時代末期にかけ,多くの血が流されてきたこともあり,今もなお,鎧武者の幽霊が目撃されるのだと言われているそうである。
また,現代においては自殺が多発しているそうで,その幽霊もまた目撃去れているのだと言う。