今回,心霊スポット候補地としてご紹介するのは「粟ノ巣の変事」発生地である。
粟ノ巣の変事と言ってピンと来る方は少ないと思われる。
これは,天正13年(1985年),現在の福島県二本松市で発生した,二本松義継による伊達輝宗刺殺事件を言う。
二本松氏は本姓が清和源氏,足利氏の支流で畠山氏の嫡流筋に当たる名家で,元々は畠山姓を称していた。
貞和6年(1345年),畠山高国は奥州管領に命じられるが,観応の擾乱(足利尊氏と弟直義の抗争)が発生すると,尊氏派の高国・国氏親子は,直義派で同じ奥州管領の吉良貞家に攻められ敗死,この際,畠山氏一族の多くも討ち取られてしまう。
幸い,国氏の一子・国詮が安達郡二本松に逃げ挽回を図るも最終的に零落,格式面では厚遇されるものの,完全に奥州の一国人として扱われるようになる(やがて姓も,在地から「二本松」を名乗るようになる。)。
やがて,戦国時代に突入しても二本松氏は勢力を盛り返すことはできず,周囲の蘆名氏や伊達氏など有力な国人に圧迫,二本松義国の時代には安達半郡,安積半郡をようやく知行する程度だった。
そして,国氏の子・義継の時代の天正13年(1585年),伊達政宗が岳父・田村清顕と共に大内定綱(小浜城城主)を攻撃すると,定綱と姻戚関係にある義継も政宗から攻撃を受けることになる。
この時期,まだ十代でしかない政宗であるが,「独眼竜」の片鱗は見せていたようで,その攻撃に義継は降伏を申し出る。
しかし,政宗は義継を許さず,二本松付近の僅かばかりの土地を除きその所領を没収し,二本松氏の領主としての地位を維持できない状態まで追い込もうとした。
この条件については,政宗の父ですでに隠居していた輝宗や政宗の重臣・伊達成実の斡旋で多少緩和されてものの,義継は政宗を深く恨み,宮森城(二本松市)に居た輝宗に謁見の折,輝宗を拉致,そのまま二本松城に連れ去ろうとしたが,高田原(二本松市平石高田)でその後を追跡していた伊達勢が銃撃を開始,その銃撃で二本松勢全員(約50騎程度いたとされる。)が死亡,義継は輝宗を刺殺しその後自害(または射殺)されたのだという(この辺りの状況についてはいくつか異説あり。)。
つまり,元名家の人物が深い恨みを抱いたまま新で言ったわけなのだが,実は話はこれだけでは終わらない。
と,言うのも,死亡した二本松義継は,その後,政宗により斬り刻まれ,その上藤蔓で繋ぎ合わされて無残に吊るされたとされるほか,同年のうちに居城・二本松城が攻められ,翌年にはついに開城,義継の子・国王丸(義綱)は会津の蘆名氏の元へ逃れることになる。
そして,その蘆名氏も天正17年(1589年)に政宗の攻撃を受け,蘆名義広は実家である常陸国の佐竹氏の元へ逃走,義綱もそれに従うのだが,同行先の常陸国にて義綱は殺害された(または逃走の途中で殺害されたともいう。)のだという。
つまり,義継はその死亡時も,その死後も,深い恨みを抱くような事象が発生していたのである。
義継に暗殺された輝宗は手厚く葬られているのだが,義継については上記のような仕打ちを受けている。
その恨みが現在まで続いていてもおかしくないと思うのは私だけだろうか。