松前郡松前町にある松前城は安政5年(1855年),同地を治めていた松前氏が,江戸幕府の異国船到来の増加に伴う海防強化を命じられ築城した城で,元々,同地に存在してた福山館(慶長11年(1606年)築城)を拡張した,日本における最後期の,また,北海道における唯一の日本式城郭である。
そのため,同城では戦国時代の合戦こそ経験していないものの,明治元年(1868年)の戊辰戦争(箱館戦争)時,旧幕府軍側の攻撃を受け落城,その後,かろうじて天守閣や本丸表御殿,本丸御門が残されていたのだが,戦後すぐの昭和24年(1949年),火事により本丸御門以外が焼失,その後,昭和36年(1961年)に天守閣が復元,現在は木造天守閣を復元する動きがあるのだという。
ところでこの松前城は,北海道屈指の心霊スポットであるとされ,数多くの怪しい話が伝えられている。
まず,有名なのが,寛文9年(1669年)に発生したアイヌの首長であるシャクシャインの反乱である。
当初,約2000人を率いたシャクシャイン側が優勢だったが,やがて松前藩は幕府や他藩の援軍を借り形成を逆転したため,シャクシャイン側は和睦に応じることになる。
しかし,和睦の酒宴の席上,シャクシャインとその部下は松前藩の謀略により皆殺しにされて討ち取られ,その耳を削ぎ落とされた。
その耳を生めた場所として,現在も城内に「耳塚」が残されているのだが,当時殺されたシャクシャイン達の恨みは,当時の藩主へと降りかかった。
それは,シャクシャインの反乱時の藩主・松前矩広は60歳を超えた頃から,
「耳を返せと囁くのは誰だ!」
と叫び,乱心し始めたのだという。
その頃,松前氏には丸山久治郎兵衛という忠臣がおり,常々矩広に対し常に諫言を述べていた。
しかし,そのことを矩広は常に疎ましく思っていたこと,また,丸山久治郎兵衛を落としいれようとする他の家臣の讒言を信じた矩広は,ついに丸山久治郎兵衛を殺してしまう。
その方法とは,家臣に命じ,矩広が愛用していた鉄扇が井戸の中に落ちたため,それを取りに行くよう命じ,井戸に入った丸山久治郎兵衛の頭上から大石を落とすというものであった。
その後,矩広の側室が産んだ子供が相次いで死亡する,また,讒言した家臣が変死するなど奇怪なことが相次ぎ,井戸を埋めようとすると「苦しい,石をどけてくれ」といううめき声が聞こえたのだという。
そして,この井戸は「闇の夜の井戸」と呼ばれ,現在も新月の夜には,丸山久治郎兵衛の怨念の声が聞こえてくると言われている。
また,先に書いた耳塚でも,遊び半分で近付くと耳に激痛が走るとも言われている。
同城は今も怨念息づく城のようである。