令和2年1月16日 改訂
1 概説
安達太良山への登山口,奥岳登山口より登山道に入り,くろがね小屋へ向かう道の横,分かりにくい場所にこの女郎塚があるという。
女郎塚は,かつてこの周辺に存在していた遊郭で働き,そして死んでいった女郎達をこの場に埋葬していたのを,後に手厚く供養するために築かれた塚である。
そのようないわく付きの場所のため,この付近においては心霊現象が発生する,と噂されているとのことである。
2 解説
上記の話は,二本松市出身の職場の同僚より聞いた話である。
さて,女郎塚を考査するためには,まず,近くにある岳温泉の歴史を紐解く必要がある。
岳温泉というのは,元々現在の場所にはなく,もっと安達太良山寄りの場所にあり,その当時「湯日温泉」と呼ばれていた(現在は「元岳温泉」と呼ぶ場合もある。)。
特に,湯日温泉は,二本松の地を丹羽氏が治めていた江戸時代に温泉街として整備され,湯女(ゆな)が100人もいたなど,賑わいを見せていた。
しかし,文政7年(1824年)に同地で山津波が発生,一瞬にして温泉街が壊滅したため,翌年,二本松藩は湯日温泉から約6Km下の平地に,新たに「十文字岳温泉」という温泉街を作り上げた。
ところが,この十文字岳温泉は,慶応4年(1868年),戊辰戦争の戦火に焼かれてしまう。そこで,明治3年(1870年)現在の岳温泉の南西部に,新たに「深堀温泉」という,小さな旅館と共同浴場を作り上げたが,明治30年(1893年),旅館からの失火により,また温泉街は壊滅してしまう。
そして,最後に作り上げたのが,現在の岳温泉(明治39年(1906年))になる。
岳温泉の歴史は以上のとおりとなるが,では,女郎塚はいつ頃の時代に関連するものだろうか。これは推測だが,やはり湯日温泉か,十文字岳温泉時代の頃の遊女が埋葬された場所なのではないだろうか。
当時,遊女等は現代では考えられないような扱いをされており,特に,死亡時には「投げ込み寺」と称される寺に文字通り投げ捨てられたとされる。この地でも,女郎達は悲惨な生活を送り,死してもまた丁重に弔われないなど,悲惨な扱いを受けた可能性は十分に高いと思われる。
現在こそ手厚く弔われているものの,それでもなお,女郎達の無念の思いが残っているのやも知れない。
令和元年8月23日追記
文献を整理していたところ,次のような記述を見つけたので記する。
上記のとおり,十文字岳温泉は戊辰戦争の戦火に焼かれたが,新政府軍の手により焼かれた宿もあれば,新政府軍の手に渡るのを惜しみ,自ら火を放った宿もあったという。そして,その時の火事で死んだ遊女が多く存在していたという。
その後,その遊女達が夜な夜な幽霊となり現れ,物悲しい声ですすり泣いたといい,土地の人々は哀れに思い,「袖振り地蔵」と呼ばれる地蔵尊を経てて供養したところ,幽霊は現れなくなったという。
女郎塚は,この袖振り地蔵の近くにある塚のようで,また,いくつかの小さな墓もあるとのことである。
令和元年9月13日追記
今回、女郎塚周辺の写真を撮影したので追加掲載する。
現在、女郎塚は史跡に指定されているようである。
なお、上記の碑により、十文字岳温泉時代のものであることが判明した。
厳密にはこれは女郎塚とは別の供養塔のようである(今回、軽装備のため、女郎塚の探索はしていない。)
現在も手厚く供養されているのがよく分かる。私も手を合わせ、儚く散ったと思われる女郎達の冥福を祈った。
江戸時代、この地には吉原に似た華麗な行楽地が存在したという。現在では往時を忍ばせる遺構等は皆無で、ただ草木が生い茂るのみである。