令和2年1月17日 改訂
1 概要
丹羽氏10万石の居城である二本松城は,通称である「霞ヶ城」の方が知名度が高いのではないのかと思われる。
元々同城は,地元の国人領主である二本松氏により築かれ,同氏が伊達政宗の侵攻により滅亡した後,幾度かその城主を変遷,最終的に二本松領を所領した丹羽氏が入城,大改修を行い居城とし幕末に至った。
現在,同城は城址公園として整備されており,特に秋になると,有名な「二本松の菊人形」展が開催されている。同展示会では,精巧な人形に菊の花をあしらい,来場する人々を楽しませているが,実は,不気味な噂も存在している。
それは,菊人形開催中,展示されている人形が,係の者が誰も移動させていないのに,前日とは違う別の場所に移動するという,不可解な現象が発生する,というものである。
また,そもそも,この城址公園自体,怪談話や幽霊の目撃談が噂されている場所である。人形が移動するのも,それらの噂と関連があるのかも知れない。
2 解説
城という性質上,同城も幾度か戦火に巻き込まれているのは紛れもない事実である。
その戦火の中でも特に有名なものは,戦国時代,伊達政宗の侵攻を受けたこと,幕末の戊辰戦争時,新政府軍の侵攻を受けたことである。
特に,後者の戦闘(二本松城攻防戦)において同城が落城した際には,二本松藩の家老以下7名の者が城に自ら火を放ち自刃したのをはじめとし,数多くの二本松藩士が戦死した(有名な二本松少年隊隊士18名もまた,その中に含まれている。)。
この事実が,噂されている怪談話や幽霊の目撃談と因果関係があるか,残念ながら不明ではあるが,少なくともこの地が「いわく」のある場所であることは間違いないのである。
令和元年8月25日追記
二本松城の写真を撮影したので追加掲載する。
二本松城址遠景。
入口付近には、戊辰戦争時に戦死を遂げた大城代を忍ぶ石碑が置かれている。
箕輪門の様子。かなり規模の大きい門である。
三の丸付近の様子。菊人形展の準備がされていた。
あまり観光地化されていないが、城郭としてはかなりの規模を誇ることが分かる城である。興味のある方は、ぜひ一度訪問されることをおすすめする。
令和元年9月16日追記
同城にまつわる主要な合戦には次のようなものがある。
①戦国時代
天正13年(1585年)10月15日、同城は伊達政宗の軍勢に囲まれる。実は、去る10月8日、政宗の父伊達輝宗が畠山(二本松)義継に拉致、相打ちとなった事件(栗ノ須合戦とも)が発生していた。
この守城戦は翌年7月16日まで続き、義継の子国王丸が本丸を自焼し逃亡したことにより終結、ここに畠山氏は滅亡した。
➁幕末
慶応四年(1868年)7月、奥羽越列藩同盟に参加していた二本松藩は、主力の藩兵を白河城へ出動させていた。
しかし、7月26日、同じく奥羽越列藩同盟に参加していた三春藩が新政府軍に降伏すると戦局が一変、新政府軍が本宮に進出し、戦力を分断されてしまう。主力不在の二本松城は老人・少年の留守部隊で戦うしかなく、7月29日、新政府軍の攻撃により1日で城は陥落する。
この際、二本松藩の者の死者は200名を超す損害を受けたという。