鶴ヶ城は大分県大分市に存在していた山城で,別名鶴賀城と呼ばれており,現在は城址に公園が整備されている。
同城の築城年は不明であるが,豊後国の戦国大名・大友氏に仕えた利光氏が築城したものと言われている。
なお,利光氏は,大友氏の庶流・戸次氏の支流である。
天正14年(1586年),九州制覇を目指す薩摩国の島津氏が約2万の軍勢を率い同城に攻め寄せる(兵を率いたのは島津家久。)。
同城には大友氏の重臣・利光宗魚が約3000の兵で籠城,地の利を活かし巧みに戦い抜いた。
しかし,宗魚は物見櫓を視察している最中流れ弾に当たり戦死,また,救援に駆けつけた豊臣秀吉の軍勢(仙石秀久,長宗我部元親・信親親子,十河存保ら)も島津勢に大敗(戸次川の戦い)したため,ついには同城は降伏を決断することになる。
この戦いでは,島津氏は約3000,同城側は約1000の戦死者が出たと言われているのだが,今なお同城付近では,男性のものと思われる悲鳴が聞こえてくる,また,生首を抱えた武者の幽霊が現れると言われているそうである。