赤谷城は新潟県新発田市に存在していた城である。
同城の築城年は天正9年(1581年)のことと言われ,会津の蘆名氏に仕えていた小田切盛昭が,上杉景勝と対立していた新発田重家を支援するため,同城を築城した。
重家は上杉氏に仕え,数々の武功を挙げ活躍した武将で,天正6年(1578年),上杉謙信が死去した後に発生したお家騒動である「御館の乱」において景勝を支持する。
景勝が上杉氏の後継者となった後,重家は新発田勢への恩賞を期待していたが,景勝は自身の子飼いの臣に対し恩賞を与え,重家には満足な恩賞は与えなかった。
この扱いに重家は怒り,天正9年,景勝に対し反乱を起こすのだが,この反乱に関して,蘆名氏が重家に対し,様々な工作を行ったのだという。
そのような関係もあり,蘆名氏は重家支援のため,同城を築城,そして同城は,会津から物資を輸送する際の拠点として重要な役割を果たした。
しかし,天正15年(1587年),援軍に来ていた蘆名氏の重臣・金上盛備が同城から退却すると,景勝の家臣・藤田信吉が同城に攻撃を開始,さらに景勝自身も約1万の軍勢を率いて攻撃したため同城は僅か一日で落城,小田切盛昭以下城兵は全滅,それと同時に廃城となったようである。
そして,上記のような歴史があるためだろうか,同地には武士の幽霊の怨念が今も残るものと囁かれているようである。