永禄11年(1568年),足利義昭を奉じて京都に上洛した織田信長は,越前国の朝倉義景に対し上洛を要請するが,本拠を留守にすることに不安を覚えたこと,また,家格が下である織田氏に従うことを嫌った義景はその要請を拒否する。
これに対し,信長は元亀元年(1570年),越前国に侵攻を開始するが,その時,義弟である近江国の浅井長政が信長から離反,その背後から攻撃を仕掛ける。浅井氏は以前,朝倉氏に援軍を要請したこともありその縁が深かったこと,また,仮に信長が朝倉氏を攻撃する際,事前に浅井氏に連絡するという約束を信長が反故にしたためと言われている。
前面に朝倉軍,背後から浅井軍と,挟撃される危機にあった信長だが,辛うじて撤退を完了,京都へ戻った後改めて出陣,同盟を結んでいた徳川家康の軍勢とともに,浅井・朝倉軍と姉川で戦うことになる。
午前6時頃に開始されたとされるこの戦いは,織田・徳川軍約1万3000~4万,浅井・朝倉軍約1万3000~3万の兵力であったとされ,戦後「血原」や「血川」という地名が残される程,激しい戦闘が繰り広げられたのだという。
やがて,浅井・朝倉軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は家臣・榊原康政に側面攻撃を命じた結果,まずは朝倉軍が,そして浅井軍が崩れ敗走した。
この戦いでは,織田・徳川軍は約1000余を討ち取り大勝したのだと言われている。
現在,古戦場地には慰霊碑が設けられているのだが,この周辺にある野村橋(かつてい「血川橋」とも呼ばれていたのだという。)には奇怪な噂がある。
それは,この付近では怪奇事件や交通事故が起こるそうなのだが,何故か事件事故に遭う者は,決まって首に関わるケガをするのだという。
戦いで破れた者が打ち首にされる,ということを連想させるものであるが,それは考えすぎなのだろうか。