天正10年(1582年),織田信長とその盟友・徳川家康,そして北条氏政は,武田勝頼の領国である甲斐国,信濃国,駿河国,上野国へ侵攻を開始する。
長篠の戦い(天正7年(1575年))に父・武田信玄以来の多くの重臣を失い,その後勢力が衰えていた勝頼率いる武田氏は抗うことはできず,本拠地である新府城を放棄,配下の小山田信茂の下へ逃れようとするが,信茂の離反を受け断念,天目山へ逃れることとなる。
そして,勝頼一行は,天目山の目前にある田野の地で,織田氏家臣・滝川一益の軍勢約数千と遭遇する。
僅かな供しかいない勝頼一行であるが,後に「片手千人斬り」の異名を残す土屋昌恒らの活躍もあり,数で勝る織田氏に多大な損害を与える。
しかし衆寡敵せず,ついに勝頼,そして嫡男・信勝,勝頼の妻・桂林院殿は自害,ここに,名門・武田氏は滅亡を迎えることとなる。
この際,勝頼・信勝親子の首を洗ったとされる「首洗い池」が今も残されているが(後述の姫ヶ淵,その場所では,この戦いで命を落とした武士や女性の首が浮かび上がるのだといわれているそうである。
また,武田一族滅亡の折,桂林院殿の侍女達も,付近を流れる日川に身を投じ殉じたといい,その場所は現在,「姫ヶ淵」と呼ばれ,現在案内板や石碑が残されているのだが,同所は心霊スポットとされているそうで,この地を訪れた者の中には謎の発光体を目撃したという者もいるのだそうである。