福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

山形城(山形県)

 山形城は山形市に存在していた別名霞城,霞ヶ城,吉字城と呼ばれていた城で,現在は本丸と二の丸付近が霞城公園として整備されているほか,国の史跡にも指定されている。

 その築城年は正平12年/延文2年(1357年)の南北朝時代のことで,羽州探題として同地に赴任した斯波兼頼が築城したのをその始まりとする。
 斯波氏は以降,最上氏を名乗り,同城を拠点として最上氏宗家として戦国大名化することになり,第11代当主最上義光の時代,慶長年間(1596~1615年)に城郭を拡大,城下町を整備し,出羽57万石の礎を築くことになる。

 しかし,義光死後,家臣団の内紛を経て最上氏は元和8年(1622年)に改易,後,鳥居氏を初めとして幾度か藩主が変更となった結果,巨大な城の維持は困難となり,本丸は更地化し,御殿は二の丸に置かれ,三の丸は田畑にされるようになってしまった。

 そして,明治維新後,同城には陸軍の兵営が置かれたため櫓や御殿は破壊され,お堀等も埋められて耕作地するなど,市街地としての整備が進むことになるのである。

 ところで,天正12年(1584年),同城ではある悲劇が発生した。
 この日,白鳥城主白鳥義久が,主君である最上義光より,「病が重く,後事を頼みたい」という知らせを受け,急遽,山形城へと訪れた。義久は義光の長男義康に長女を嫁がせていたほか,文武を兼ね備えた名将と言われていたため,今後の話を相談したいというのももっともなことである。

 しかし,それは義光の罠であり,義久は山形城内で暗殺,桜の木の下で殺害した。桜の木は義久の血を浴び,また,義久の流した血だまりの中に桜の花びらが舞い落ち,血の海の中に飾られたのだという。
 そして,その桜はその後毎年,濃い紅色の花を咲かせたため,「血染めの桜」と呼ばれたのだという(この桜は昭和初期まで現存していたという。なお,桜の木が義久の血を浴びた話は創作であるとも言われている。)。

 義久を討ち果たした義光は,そのまま城主のいない白鳥城を攻撃,白鳥一族は滅ぼされてしまう。

 この暗殺劇は,義久の勢力が最上氏から見て看過できない程大きく成長していたため発生した悲劇のようであるが,やはり,暗殺された義久は成仏できなかったのであろうか,上記の血染めの桜付近では,武者姿の幽霊や謎の人影の目撃談があったのだという。

 また,この桜付近では首吊り自殺を遂げる者がいる,自殺者と思しき幽霊が現れるとも噂されているとのことである。

 義久の首塚は現在も山形城に残され,元和2年(1616年)には33回忌法要が行われ,葉が建立されたとのことであるが,その怨念が成仏されたかどうかは定かではない。