金沢城は石川県金沢市に存在していた城で,江戸時代には加賀百万石を治めた前田氏の居城として有名であり,平成13年(2001年)には金沢城公園が整備されたほか,同20年(2008年)には国の史跡に指定されている。
同城は天文15年(1546年),同地に造られた寺院である尾山御坊が元とされ,天正8年(1580年),尾山御坊を攻め落とした織田氏家臣・佐久間盛政が金沢城として用い始めた。
天正11年(1583年),賤ヶ岳の戦いの後,羽柴秀吉より加増を受けた前田利家が同城に入城,名を尾山城と改称,天正13年(1585年)にはキリシタンで有名な高山右近が大改修を実施,その際,再度金沢城に名を改称したのだという。
同城の改修は利家の子・利長の時代(文禄元年(1592年))にも行われ,その後,同城は加賀藩の藩庁として機能してきたのである。
ところで,同城には,興味深い話が3つ,伝わっている。
まず一つ目の話である。
加賀藩二代藩主・前田利長には,「おいま」という側室がいた。
ある時,徳川家康との関係に忙殺され,あまり利長に相手にされていなかったおいまは,利長の重臣・太田長知と不義密通を重ねてしまう。
そして,ついにこのことが利長の耳にも届き,利長は長知の上意討ちを決断,慶長7年(1602年)やはり重臣・横山長知の手により太田長知は暗殺されてしまう。
ところが,太田長知の暗殺後,城内では不思議な出来事が起きる。太田長知の月命日になると,屏風から血が滲み出るようになったのだという。
また,おいまの方も無事にはすまず,不義密通の手助けをした侍女も含め,利長の手により拷問を受け,無残な死を遂げたのだという。
しかし,おいまの方の死後も,太田長知の時と同様,奇怪な出来事が発生した。
慶長7年(1602年),金沢城の天守に落雷があり火災が発生,火は天守の火薬庫に燃え移り大爆発を発生,天守が吹き飛んだだけでなく,多くの死傷者が発生した。
この様子を見た城下の人々は,これはおいまの方の呪いであると噂したそうである。
次に,二つ目の話である。
利長の跡を継いだのは異母弟・利常であるが,利常は慶長5年(1600年),徳川秀忠の二女・珠姫と結納を交わし,翌年,珠姫は金沢へと輿入れした。
この際,珠姫と一緒に金沢城に来た側女は再三不忠を働き,珠姫が病気の際も不義密通を重ねていたのだという。
この側女の一連の行為は,同城に残る太田長知とおいまの方の情念や怨念であり,このまま放置しておくことはできないと考えた前田氏は,この側女もまた処刑することに決定する。
そして,この2つの話の出来事がきっかけとなり,同城に残る情念や怨念を封ずる目的で,天守の再建は代々禁じられたと言われているそうである。
最後の話も,三代藩主・利常の時代のものである。
寛永9年(1632年),同城の堀に水を引くため,辰巳用水が開削された。
この用水を開削したのは,板屋兵四郎(下村兵四郎とも)という人物で,「伏せ越し」という原理を用い,水を低所から高所へ導くという,当時の水路技術の水準をはるかに超える技術で完成させたのだという。
ところが,辰巳用水が完成した後,兵四郎は捕縛,入牢を命じられる。これは,この技術が敵に漏れてしまうと城を丸裸にされかねないため,秘密が漏れないようにするための措置であるが,当然兵四郎は納得できず,ついに牢内にて憤死を遂げてしまう。
その後,加賀一帯は暴風雨,豪雪,落雷と言った天候不順に見舞われるようになり,人々は兵四郎の祟りであると噂し始めた。
しかも,江戸城下では,加賀藩のこの用水工事が,幕府へ謀反を起こすものである・・・そんな噂が流れ始め,このような流言飛語が飛び交うこと自体,兵四郎の祟りではないかと加賀藩は考えた。
そこで,兵四郎ゆかりの袋村に神社を作り,そこに兵四郎の霊を祀った。
村人達も,神社を通るたびに,兵四郎を偲び,野菜や芋を供えるのを習慣としたのだという。
このように奇怪な話が残る金沢城であるが,これらは伝説に過ぎない可能性も考えられる(太田長知が暗殺されたのは反徳川派であったことが理由とも考えられるし,天守が再建されなかったのも,単に徳川幕府に睨まれないようにするためとも考えられる。)。
ただ,これらの話以外にも,現在の金沢城では,心霊写真が撮影されるという噂もあるようであり,何らかの因縁が未だ残る場所という可能性はありそうである。