1 概要
加藤嘉明の士に,小島伝八という者がおり,その一子惣九郎が11歳の春の暮れにどこに行ったのか姿が見えなくなった。伝八は様々な所を訪ねてみたが,その行方は知れなかった。伝八夫婦は嘆き悲しみ,神仏に祈り,巫女や山伏を呼んで様々な祈祷を施した。
ある日,甲賀町に住む古手屋甚七という者が伝八の家を訪れた。そして,甚七が言うには,二十日ばかり前に,暁頃(太陽の昇る前のほの暗い時間),私らは用事があり早く起きて店の戸を開いたところ,大山伏二人が後先に立ちその間に惣九郎様をはさんで東の方向へ道を急いでいたが,一人の山伏が私の所に来て,この辺りに10歳ばかりの子供が履く草鞋の売り物がないか尋ねてきた。私はない,と答えたところ,3人はそれよりどこに行ったのか姿を見失った,と語った。
伝八夫婦はこれを聞き,さては天狗にさらわれたのだとして,妙法寺の日覚上人という尊い出家を頼み,五の町(五ノ丁か)の車川の端に護摩壇を飾り,法華坊主20人がここで経読祈祷を始めた。
そして7日目の日中,一点の雲のない晴天虚空に小さいものが見えた。見物をしていた諸人が空を見ると,東より大鳶(おおとび)が一羽飛んできて,この小さいものをさらい取ろうとすること度々であったが,その時,一羽の金色のカラスがどこからともなく飛んできて,大鳶をを近づけなかった。やがてこの小さいものは段々地に下り,間近く見るとそれは人であった。その人は三十番神の壇に落ちたが,見るとまさしく小島惣九郎であった。諸人は奇異な思いをし,日覚上人を仏の再来であるとしたという。
なお,惣九郎は一生空気(うつけ)になり,役に立たなかったという。
2 解説
加藤嘉明が会津を統治していたのは寛永4年(1627年)から寛永8年(1631年)のことであり,上記の話もその4年間の間のことと思われる。
また,上記の妙法寺は,会津若松市馬場本町にある妙法寺のことと思われる。同寺は明徳2年(1392年)に開かれた法華宗の寺である。