原城はかつて長崎県南島原市に存在していた平山城で,別名春城,志自岐原城,日暮城,有馬城とも呼ばれており,昭和13年(1938年)には国の史跡に指定されている。
同城は明応5年(1496年),同地に勢力を有していた有馬氏が日野江城の支城として築城したものである。
その後,有馬氏が転封となり,元和2年(1616年),松倉重政が移封されると,先に入城した日野江城が不便なため,島原城を築城することになるが,この際,日野江城と原城が廃城となり,石垣や建造物が転用されたという。
そして,寛永14年(1637年),松倉氏の過酷な年貢徴収やキリシタン弾圧に端を発し,島原の乱が勃発すると,約3万7000もの一揆勢が原城に立て篭もることになる。
一揆勢は約3ヶ月の間,約12万を超える幕府軍と戦闘を繰り広げるが,兵站の補給がない一揆勢は次第に兵糧・弾薬が尽き,ついに幕府軍の総攻撃の前に全滅してしまう。この際,死亡した一揆勢の遺体は同城内にまとめて埋められたといい,実際,同城の発掘調査においては大量の人骨が発見されている。
このような血塗られた歴史を有する同城では,訪れた者が原因不明の体調不良に襲われる現象や,当時の農民の姿をした男女の幽霊の目撃例があるといい,今もなお,一揆で無念の死を遂げた者達の魂が安らいではいないようである。