奈良県大和郡山市に存在してた郡山城は,豊臣秀吉の政権下はその弟・秀長が居城としたほか,江戸時代には郡山藩の藩庁とされていた平山城である。
元々同城は,同地に勢力を有していた郡山衆が10世紀後半に築城したとされている。
この郡山衆は,戦国時代に入ると周辺の有力勢力である筒井氏や越智氏,また,大和国に侵攻してきた松永氏など,各勢力化を渡り歩くことになる。
そのため,幾度か周辺勢力との争いに巻き込まれており,元亀元年(1570年)から翌年にかけて,松永久秀の攻撃を受けたりしている。
松永久秀死亡後,同地には筒井氏が勢力を伸ばすことになるが,天正12年(1584年),筒井氏は豊臣秀吉の命により伊賀国に転封,同地には翌年,秀吉の弟・秀長が100万石の領主として入城,同城や城下町の整備を行う。
ただ,秀長の時代は短く,天正19年(1591年)に秀長は死亡,その跡を継いだ秀保も文禄4年(1595年)に死亡したため絶家,代わりに豊臣氏の五奉行の一人である増田長盛が領主となるが,長盛も慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦後に高野山に追放され,同地は徳川氏の直轄となる。
慶長20年(1615年),大坂夏の陣が勃発した際,郡山の地は筒井定慶が所領していたが,同城に対し,大坂方は約2000の兵を率い侵攻してきた。
これに対し,筒井氏は浪人や農民,商人など約1000の兵を集めていたが,大坂方の兵力を3万の大軍と見誤り,筒井氏は同城から撤退してしまう。
それでも,同城には僅かな兵力が残されており,迫り来る大坂方の軍勢と戦闘,約30名が討ち取られたのだといい,これが同城における最後の戦闘となる(なお,大坂の陣の後,筒井定慶は同城から撤退したことを恥じ,自刃したのだという。)。
このように,同城は大和国における重要な拠点のひとつとして,幾度かの戦闘が繰り広げられてきた歴史がある。
そのためか,同城付近では,落ち武者の幽霊の目撃談など,同城を巡る合戦で命を落としたと思しき者の幽霊の目撃談があるそうである。