多賀城は宮城県多賀城市に存在していた古代の城柵で,昭和41年(1966年)には国の特別史跡に指定されている。
同城は神亀元年(724年)に大野東人により築かれたといい,当時の律令政府により,北方の蝦夷を支配するための軍事拠点として,また,平時の国府(役所)として機能していた。
そのため,宝亀11年(780年)には,蝦夷の族長・伊治呰麻呂の反乱により攻撃を受け焼失したり,延暦21年(802年)の坂上田村麻呂の蝦夷討伐の際には兵站として機能していたのだという。
また,貞観11年(869年)に発生した貞観地震に伴い発生した大津波では溺死者約1000人を超える被害を出したとも言われている。
この後も,前九年・後三年の役や,南北朝時代の建武政権の指示により東北に下向した義良親王や北畠氏が同城に赴くなど,歴史上幾度かその名を現すなど,同地における軍事や政治の中心であったことが伺えるが,時期は不明であるが,その後,使用はされなくなっていったようである。
長い歴史を有する多賀城であるが,そのためなのだろうか,同地には奈良時代からの幽霊が浮遊しているのではないか,等と噂されている模様である。
また,奈良時代の幽霊ではなく,一時期,比較的時代の新しいと思われる,和服姿をしてうずくまる老婆の幽霊が目撃されたという噂があったと言われているそうである。