島根県鹿足郡津和野にある標高約367mの霊亀山に築かれていた津和野城は,江戸時代に鹿野藩の藩庁となっていた山城で,昭和17年(1942年)には国の史跡に指定されている。
同城は,鎌倉時代,この地に地頭として赴任してきた吉見氏が永仁3年(1295年)に築城,正中元年(1324年)頃に完成したとされており,当時,三本松城または一本松城と呼ばれていたのだという。
吉見氏は,同地に大きな勢力を有していた大内氏に属していたが,天文20年(1551年),大内氏当主・義隆が家臣・陶晴賢の謀反により滅ぼされると,吉見氏当主・正頼は義隆の姉を正室にしていたこと,同じ大内氏家臣であるが陶氏と不仲であること,前年,長年所領の境界争いをしており,居城である三本松城に攻め込んできた益田氏が陶氏の味方をしていた等の理由から陶氏と敵対する方針を固める。
そして,天文22年(1553年),正頼は陶氏打倒を掲げ挙兵するが,翌年,晴賢は傀儡当主である大内義長を奉じ大軍を率い出陣,ついには三本松城を包囲する。
約100日に渡る包囲戦において,陶軍(大内軍)は10数度攻城戦を仕掛けるもののその都度撃退,その間,毛利氏が陶氏(大内氏)の背後を脅かし始めたことから,最終的に吉見氏と陶氏(大内氏)は和睦,戦いは終結することになる。
この後の天文24年(1555年),陶氏が厳島の戦いで毛利氏に敗れ,その2年後の弘治3年(1557年),大内氏も滅亡すると,吉見氏は毛利氏に仕え,そのまま同城を居城とする。
しかし,慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で毛利氏が周防国・長門国に転封となると吉見氏も津和野から退去,代わりに坂崎直盛が同地を与えられ,その際,同城を近世城郭へと大改修することになる。
その後,元和2年(1616年),直盛は千姫事件により自害(または謀殺とも),坂崎氏は改易となり,翌年,亀井氏が同地へ入封,幕末まで同地を支配することになる。
ところで,山城の同城の天守を訪れるためには山道を歩いていく必要があるのだが,噂によると,この山道を歩いていると,他に誰もいないにも関わらず,自分ではない何者かの足音が聞こえてくる,また,ほら貝の鳴り響く音が聞こえてくるのだといわれている。
戦国時代,長期の籠城戦が行われた同城である,未だ戦い続けている武者の幽霊画いるのかも知れない。