明治10年(1877年)に発生した西南戦争は,明治7年(1874年)に政変に敗れ,明治政府から下野して鹿児島県に住んでいた元参議・陸軍大将の西郷隆盛を盟主として不平士族が起こした武力反乱であり,日本最後の内戦でもある。
この戦いにおいては,熊本県,宮崎県,大分県そして鹿児島県の各所で,明治政府と西郷軍との間で熾烈な戦闘が繰り広げられてきたが,その中でも特に激戦の一つに挙げられるが田原坂の戦いである。
田原は標高約100mしかなく,地理的にさほど天険ではないが,坂自体は尾根伝いにくねりのある切通しで,防御には適した場所であり,しかも,博多から熊本まで,大砲を引いて通れるのはこの坂しかないという,重要な要衝でもあった。
そこで3月4日,官軍は同坂に対し攻撃を仕掛けるものの,強固な陣地を構築していた西郷軍の前に突破することができなかった。
この日を皮切りに,官軍と西郷軍の間では,同坂を巡り激しい銃撃と白兵戦(抜刀隊まで編成している。)がそれでも同坂を奪回することができなかった。
そして3月20日になると,官軍はこれまでで最大の兵力を投入,さらに雨の中大砲を発射,一点に攻撃を集中する戦術を採用する。
これにはさすがの西郷軍も守備することができずついに敗走,ここに,官軍が田原坂を抜くことに成功するのである。
しかし,この一連の戦いにおける犠牲者の数は多く,3月20日の総攻撃だけで官軍は約490名,一連の戦いで約2400名の戦死者を出した(官軍は西南戦争全体で約6400名の戦死者を出している。)。
西郷軍もまた同様で,副司令格の篠原国幹以下多くの勇士が戦死を遂げている。
同坂を巡る戦いにおいては,官軍は弾薬を一日32万発,多い時は60万発を消費したといい,現在も同地の田畑等では銃弾が見つかることがあるとされているほか,過去,空中で衝突した銃弾が発見されている。
いかに狭い場所において,激しい銃撃戦が行われたかを物語るものである。
そして,激しい戦闘が繰り広げられた事実があるためだろうか,この田原坂一帯では,不気味なうめき声や馬に乗り疾駆する少年の幽霊の目撃談等があると言われている。
また,近くにある官軍墓地では,戦死者と思われる兵士の幽霊の目撃談があるほか,軍靴の足音が聞こえてくるという怪奇現象も発生しているのだと言われている。