天正9年(1581年),肥後国の戦国大名・相良義陽は,大挙して侵攻してきた薩摩国の島津氏に降伏することを余儀なくされる。
そして同年,島津氏は義陽に対し,阿蘇氏の家臣・甲斐宗運が守る御船城攻略を命じる。
義陽と宗運は誓詞を取り交わした盟友であり,島津氏としては,肥後国の国人衆を分断すべく,敢えて両者を戦わせようとしたのだという。
そこで,義陽は兵を率い阿蘇氏の領内へ侵攻,響ヶ原(響野原とも)に本陣を構え,さらに別働隊を甲佐城・堅志田城へ向かわせ,両城を攻め落とす。
これに対し,宗運は物見の報告で,義陽が響ヶ原に陣を構えたことを訝る(義陽であれば,別の場所に陣を構えるだろうと予測していた。)が,さらなる物見の報告でそのことが事実と知ると,義陽が敢えて死地に身を置いたと,その心中を慮ったのだという。
そして翌日未明,宗運は鉄砲隊を先鋒とした本隊を率いて義陽に気付かれないよう間道を用いて迂回,響ヶ原へと向かう。
折りしもこの日,小雨が降り霧が立ち込めていたといい,視界が悪い中,宗運は兵を二手に分けて義陽の部隊を挟撃する形で奇襲を仕掛ける。
不意を疲れた義陽の部隊は混乱を生じ,すぐに反撃の態勢を取ることはできなかった。両軍,白刃を交えた死闘を演じるが,宗運の部隊はついに義陽の部隊を撃退,義陽は床机に座したまま戦死したほか,将兵約300余も討ち取られたのだという。
響ヶ原には現在,相良堂が建立され,戦死した義陽以下将兵をここで祀っているのだが,古来より,合戦の日(12月2日)の夜になると,この場所では馬蹄や剣戟の音に混じり,武者達の者と思われる鬨の声がどこからともなく聞こえてくると言い伝えられているそうである。